神の見えざる手—もっと早く知っておけばよかったこと

 前の投稿で岩田規久男氏の著作を紹介したので、この際。
 多様な考えが存在するということを否定的に言うと、多様な偏見が存在するということであり、それぞれの「偏見」には-絶対的な判断基準はないが-「よい偏見」と「悪い偏見」が存在するということだろう。「悪い偏見」の多くは無知から起きる。私の場合、もっと早く知っておけばよかったと感ずるのは以下。
 
 〈神の見えざる手〉
 「・・・(アダム)スミスは『国富論』でこのことを『見えざる手』という言葉を用いて、次のように説明している。
『・・・生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、見えざる手に導かれて、みずからが意図してもいなかった一目的を増進することになる。彼がこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、これを意図していた場合に比べて悪いことではない。自分の利益を追求することによって、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に社会の利益を増進することもしばしばあるのである。社会のためと称して良い事をたくさんしたというような話は、いまだかつて聞いたことがない』
 (以下、岩田氏)この「見えざる手」の比喩は、利益しか念頭にない個人がその意図にはかかわりなく、結果として社会全体の利益を増進するように働く見えざるメカニズムを示すために用いられたものである。(岩田規久男「経済学を学ぶ」133〜134ページ)
・・・略・・・
 スミスが明らかにした論点は、自由な市場は個人が利己心や自愛心に基づいて行動した結果が、利他心や仁愛に基づいて行動した場合よりも、より社会一般の利益を増進するという点にある。しかし、スミスは利己主義を鼓舞したり賞賛したわけではない。むしろ、人々が利己主義であっても、競争的な市場の圧力がその人の行動を結果的に公共の利益になるようなものにすることを主張したのである。(同135ページ)

〈レセ・フェール〉
 (市場経済下では、不正な交換を適切に処罰する法の支配が重要と強調したうえで)市場が自然的秩序を形成するという考え方は、自由放任(レセ・フェール)を主張するものであるといわれることがあるが、それがただ事態をあるがままにしておくという意味にとられるならば、それは誤解である。レセ・フェールとは、社会の誰にとっても共通のそれに従って生きるべき恒常的な規則による統治が望ましいことを述べたものであり、政治は個人に対してそれ以上の介入をすべきではないということである。(140ページ)
 
 長々と引用したが、規制緩和に反対し規制強化に向かっているわが業界では、「神の見えざる手」は「機能不全」とされ、「レセ・フェール」は自由放任の弱肉強食、破壊的なアナーキズムと同意とされている。「業界は適正化されつつある」というのが大方の認識だが、わが業界は近代の知恵を超えて中世に向かいつつあるということなのか。
 特に、「自由な市場は個人が利己心や自愛心に基づいて行動した結果が、利他心や仁愛に基づいて行動した場合よりも、より社会一般の利益を増進する」のくだりは、自らの利己心や競争意識を醜いと感じて苦しむ人々の、息づまるような思いを和らげてくれるだろう。もちろんエゴイズムを全肯定することでは全くないことは言うまでもないのだが。

経済学を学ぶ (ちくま新書)

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