規制緩和の是非再論−ウォルフレンが16年前に出した「宿題」はどうなったか?

 オランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンは「日本/権力構造の謎」(上・下、ハヤカワ文庫、1994年初版発行)で日本の急激な経済成長の秘密として、通産省(現・経産省)が産業政策の司令塔になっていたからだと書き、そこに日本の特殊性のキーポイントを見出していた。確かあの本が出た90年代は、強い説得力をもつ解釈だったように思う。

 「CDS 諸国(資本主義的発展指向型国家=米国政治学者チャマーズ・ジョンソンが命名)では、私企業が大いに奨励され、政府の民間部門への取り組み方も異なる。官僚は決して、非公営企業に対して完全な支配権を入手しようと試みない。官僚は、実業家をアンテナとして利用しながら、国の経済を誘導していく。・・・略・・・官僚はいろいろな誤りを犯すが、しかし産業発展のために彼らが果たす官民の統合による利益はその誤りを償って余りあるものである。将来性のある産業分野は、国の財政金融政策によって投資が刺激されるから、経済は繁栄する。戦略的に重要だと考えられる産業は大切に保護育成され、てごわい外国の競争から守られる。・・・略・・・一方、先が見えたと判断された産業はあっさり切り捨てられ、強制的に再編成を促す政策がとられる。いいかえれば、これは産業政策と通商戦略とがしっかり結びついた共同体制なのである。」(上巻51〜52ページ)
 「日本は、100年ほど前、官営事業の払い下げ政策により国策会社から私的経営の手へと移行が行われた明治時代に、他国に魁けてCDSモデルをみずから創出した。日本はさらに、1930年代はじめから1945年にかけて、満州の産業開発を強行するなかでこのモデルを実験した。戦後ももう一度形を整えなおしたこの経済モデルは、非共産主義のアジアの発展途上国の政治家やインテリの経済的指針として、マルクス・レーニン主義理論の魅力をすっかり色あせたものにしてしまったが、その本質は保護主義である。」(上巻52〜53ページ)
 
 この伝でいくと、日本が90年代以降、ダメになったのはこうした官主導資本主義が崩壊したからだ、ということになろう。これは一般的に流布した解釈でもあるのだが、これは正しい見方なのだろうか。
 ウォルフレンと論争したことがあるかどうかは分からないが、何名かの日本の有力な経済学者−三輪芳朗や岩田規久男、原田泰ら−は、日本が高度経済成長を遂げたのはホンダのようにお上に逆らって自動車生産に乗り出した民間企業の活力ゆえであって、官僚が敷いた産業政策は何の役にも立たなかったと主張する。さらに規制緩和構造改革により、官の規制を排除し、民間が自由に事業を展開できるなら経済成長を促し、景気も好転すると説いている。
 どちらが正しいか即断はできないが、日本の行き詰まりに関する重要な論点であることはまちがいない。ウォルフレンが正しければ、いま私たちが直面している問題のパースペクティブは、戦前あるいはさらに遡って、江戸時代辺りに植え付けられたお上に従順な日本人の心性の問題にまで行き着くだろう。逆にそうでなければ、視野をそこまで広げることなく、70年代以降の地方への補助金の垂れ流しに代表される悪平等的な諸政策を構造改革で打破すれば、かつてのような経済成長も夢ではない、ということになる。 個人的には、日本社会にとって解決がより簡単な後者の見方の方が正論であって欲しい。
 さてここではあらためて気づくのは、本ブログのテーマの一つである規制緩和構造改革の是非論が別の角度から問われている−すなわち、改革は必須だが、歴史のどの時点にその原因があったのか見定めなければ、有効な処方箋を書くことはできないということだろう。
 ウォルフレンがその見解を問われたならば、日本社会の規制緩和構造改革の必要性は支持するだろうが、それだけでは「個を圧殺するこの国のありようを変えられるわけがない」と警告することは間違いないと思う。
 私はこの問題について、ウォルフレンほど懐疑的にも悲観的にもなってはいないが、あれら経済学者ほど楽観的に構える心境にもなれない。     
 そのうちの一人・三輪芳朗は著書「規制緩和は悪夢ですか」(東洋経済新報社)で、「規制緩和論者は緩和したあとの青写真を考えていない」との批判に対して、「自由に経済活動をさせるために規制緩和をやるのだから、そのあとのことは市場に任せればいい」と反論している。正論であり、なかなか痛快な書き方だ。しかしこれを地でいった時、本当に三輪氏の思惑どおりに事は運ぶのだろうか。
そういう私自身も、現下の閉塞を突破する方法として民営化や市場化は有効な手段だと考える。だが、ウォルフレンが指摘する日本のさまざまな弱点−特に、長いものに巻かれ、自立した思考ができない多くの日本人(ここに自分が入るかどうかは虚心坦懐考えてみるしかない)−もまた事実であり、そのことを考えると、まさに経済学者が経済学のみの知識でそれを実行しようとすると、予想した効能が出る前に、むしろ害毒がもたらされることもあり得るのではないかと思える。
 たとえば藤田和恵「公共サービスが崩れてゆく」(かもがわブックレット)を読むと、「市場化テスト」により民事法務協会の仕事が入札に出され、自分たちで落札はしたものの、落札価格を抑えざるを得なかったため末端職員の月給が10万円前後下がり苦境に陥ったとのエピソードが紹介されている。同書の企画が共産党系の全労連であるせいか、登場する人々が被害者意識にこり固まっているのが気になるが、まあ気の毒な出来事ではある。(この問題についてはあらためて別に書く。)
 規制緩和構造改革に対しては必ずこうした弱者の立場に立った批判が出てくる。それは「政府、大企業におもねる御用学者が自らの学問的、社会的栄達のために規制緩和を提言し、得点を稼いでいる図」を連想させる効果をもっており、単純な理屈ではあるが、反規制緩和の勢力を結集するにはたいへん有効な論拠になり得ている。 
 1990年代後半〜2000年代前半に起きた規制緩和の進展とその揺り戻しは、この一文に沿っていうならば、ウォルフレン的状況の日本に三輪ら経済学者が提起した規制緩和というメスを入れ、切開して一定の施術を施したところでその巻き返しが起き、その評価も賛否あって定まらないまま今に至っているということだろう。
 このことは、現下の民主党政権が、労組出身の規制緩和反対派から「事業仕分け」という新しいメスを振るう構造改革派まで入り乱れたイデオロギー不明の政権として存在せざるを得ないところにも現れていると思う。

日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

日本 権力構造の謎〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

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規制緩和は悪夢ですか―「規制緩和すればいいってもんじゃない」と言いたいあなたに

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公共サービスが崩れてゆく―民営化の果てに (かもがわブックレット)

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