恣意的なレッテルとしての―「マイノリティ憑依」

 フォロワーの方から「マイノリティ憑依」という言葉を教えてもらった。「憑依」というと「狐憑き」や「コックリさん」を連想するが、「弱者や被害者の気持ちを代弁して神のような無敵の視点から相手を批判、攻撃する」という意味らしい。
「用法は?」というと、この言葉の生みの親である佐々木俊尚氏自身がこのようにツイートしている。
“@sasakitoshinao: マイノリティ憑依。「原発問題は社会に反撃を行うチャンス。原発というこれほど分かりやすい悪はありません。反原発を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てました」/ある主婦の体験から 自らの差別意識に気づいたことが覚醒の契機に
https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/199637997765918721
 リンク先のインタビューを読むと、白井由佳という主婦で自営業の女性が自分の人生に自信を喪失しているさなかに、原発事故が起き、「役割を得た」と思ったと話している。
「『原発』問題は社会に反撃を行うチャンス。原発というこれほど分かりやすい『悪』はありません。『反原発』を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てましたし、自己愛が満たされました」。
放射能パニックはカルト宗教への依存と似たものがあったと感じています。・・・道を示してくれる崇拝者、つまり『恐怖情報ソース』がいるのでとても楽でした。居心地のいい場所で、現実の世界にはない絶対的安心感を抱けました」
 このインタビューを読んだ人はどんな感想を持っただろう。私は「社会に反撃を行うチャンス」とか「特別な使命を持った選民意識」「放射能パニックはカルト宗教への依存と似た・・・」という辺りを読んでいて、被曝に強い懸念を抱く人々を「放射脳」と呼ぶ人たちにとって「ど真ん中ストライク」過ぎるフレーズがてんこ盛りであることに「?」と思った。できすぎていてプロパガンダっぽい不自然さを感じるのだ。
 しかもインタビュアーは、これまで被曝を忌避する人々に批判的な石井孝明氏。さらに、この「Global Energy Policy Research」を運営しているのは、池田信夫が代表のアゴラ研究所だ。被曝問題に関して公平を保とうなどと考えていないと見るべきだろう。
 ところが佐々木氏は、これを「マイノリティ憑依」の典型例としてあげているのだ。
 「憑依」という表現も気になる。大辞林によると、1.よりすがること 2.霊などが乗り移ることーとあるが、一般的には2.の意味だろう。(注)
 弱者や被害者が置かれた立場の矛盾や不当性に共感したり怒りを感じて発言するのはままあることだ。中には、欺瞞や行き過ぎはあるだろう。だが、それらは個別に見るべきなのであって、十把一絡げで「狐憑き」同然に扱うのは無茶ではないか。
 そこで、「こんな定義(マイノリティ憑依)を広められたら、弱者や支援者の正当な抗議活動はdisられ、無効化されてしまうだろう」「これは藁人形論法ではないか」とツイートした。
 しかし何か引っかかる。佐々木氏はなぜ今こういう特異な言葉を造ったのか。「当事者の時代」(光文社新書)を買って読んでみた。
 「マイノリティ憑依」という造語は、小田実津村喬に起源があるそうだ。佐々木氏はこう書く。
 「小田氏の論理はこうだった。ベトナム戦争に兵士として駆り出されているアメリカの若者は、『国に命令されている』という意味では被害者だ。そしてベトナム戦争で人を殺しているという意味では加害者だ。・・・『被害者であることによって、加害者になってしまった』ということなのだ。・・・この『被害者だからこそ加害者になる』という関係。〈被害者=加害者〉というメカニズムに私たち一人ひとりは取り込まれてしまっている。そして小田実は、このメカニズムから自分をいかに切り離すかが、反戦運動の大きな課題だと考えたのだった」。
 率直に言って、小田実というダイナミックな運動論を展開しながら言葉を紡いだ反戦思想家が、〈被害者=加害者〉などという枠組みに囚われたとは考えにくく、佐々木氏の誤読ではないかと思われる。小田実の有名な言葉に「殺すな」があるが、この米軍兵士をめぐる加害性・被害性論もベトナム人をいかに殺させないようにするか、米軍兵士にいかに侵略を踏みとどまらせるかを実現させるために考案された論法であったはずだ。
 それはキング牧師なども角度を変えて主張し続けて来たことだ。米政府に徴兵され、「自由と民主主義」をベトナム人に伝えるために若い黒人兵士は命を賭けさせられるが、その黒人兵士らは当の自分たちの国で一度も「自由と民主主義」を与えられたことなどないと。何という皮肉かと。
 このキング牧師の論理は〈被害者=加害者〉などと内向していく論法ではなく、一見、被害者と加害者という対立的にしか見えない関係も、見方を変えれば実はともに被害者なのであって、本来は連帯しうることを気づかせてくれるだろう。小田実も同じ考え方だろう、なんせ、「殺すな」を基点に考え続けた人だから。
 ところが佐々木氏は、これを一人の人間の内で「被害者性」「加害者性」の認識をバランスさせる問題に矮小化する。両者は相殺の関係にあるらしく、相手の被害者性を無視したら「人を〈加害者〉として断罪し続ける」オーバードーズの罠にはまるというのだ。これが「マイノリティ憑依」の状態なのだという。
 まあ、ここまで恣意的に解釈して編み出された定義だから、用法としてはいかようにも当てはめが可能だろう。ちょっとでも正義漢ぶったり、義憤に駆られたりして発言したら「それって『マイノリティ憑依』だよね」と冷たく言われて終わるとしたらたまらない。本多勝一や斉藤茂男もやっつけられているが、佐々木氏は要するに「レッテル張り」をしているに過ぎないと思う。
 佐々木氏がいかに異様なまでの思いこみに囚われているかを示す文章があるので引用する。分かる人には分かると思う。
「これはつまりは『憑依』である。つまり乗り移り、乗っ取り、その場所に依拠すること。狐憑きのようなものだ。マイノリティに憑依し、マイノリティに乗り移るのだ。そして乗り移った祝祭の舞台で、彼らは神の舞いを演じるのだ」
  さらに佐々木氏は、次の章で「マイノリティ憑依」を「穢れ」や「異邦人」という用語を使いながら神道の中に位置づけようとしているが、「マイノリティ憑依」という言葉が根拠薄弱なだけに、論じれば論じるほど説得力を失っているように見える。
たしかに、弱者や被害者の立場に立ったつもりで酔っているだけだったり、フリをして実は利用しているケースは、ジャーナリズムでも学会、運動圏にもあるだろう。だがそれらは個別に批判すればよいことだ。
このような疑問視せざるを得ない定義を提示した佐々木氏には、脱原発をめぐって人々が好き放題言い出したことへの苛立ちのようなものがあるのだろうか。「中国化する日本」の著者・与那覇潤氏のツイートなどにも似た感情が染み出ているようにも感じられ、少し気になっている。

@jyonaha: 「有名人なのに親原発」認定した人を叩いて「無名の俺の方がアイツより上」なる満足感を得たい人の対象が @ikedanob さんが即時ブロックする分 @amneris84 さんに向かってるのか。当時炎上した香山リカ氏の記事は正しかった気がする http://t.co/iy6IaRFa

 
(注)実際に佐々木氏自身が「当事者の時代」において「狐憑き」という言葉を使っている。

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)