五百旗頭真「関東大震災時の大量殺戮 情報暗黒下の異常心理」への疑問

 五百籏頭(いおきべ)真氏という学者が毎日新聞http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c.htmlというエッセイを書いている。
 五百籏頭氏はまずユーゴ内戦に触れたあと、こう書く。

 なぜ一緒に暮らしていた者たちが殺戮を始めたのか。「過去という扉を開けた瞬間から、悲劇は避け難いものとなった」(オイディプス王)と表現されるような歴史の傷が深いことは言うまでもない。直接の契機は、「あの連中が攻めて来る」との恐怖心から攻撃を思う集団心理の相互作用だという。そこでは断固として強硬論を吐くリーダー(扇動家)の役割も大きい。情報が不確かな中で防御的先制攻撃論が集団的に膨らむのは、その地だけの話ではない。ルワンダツチ族フツ族にも、本編の主題である関東大震災(1923年)下の自警団による虐殺にも、同種のメカニズムが認められる。http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c.html

 ここで引っかかるのは、ユーゴやルワンダの内戦による殺戮と、朝鮮人虐殺とが同じ次元で語られていることだ。たしかに、こうした心理はユーゴやルワンダなど内戦の最中の集団同士では起きやすいのかもしれない。しかし日本はこの時、韓国を一方的に攻めて併合してしまっている。「情報が不確かな中で防御的先制攻撃論が集団的に膨らむ」ような心理は当てはまらないはずだ。
 五百籏頭氏はさらに、1906年のサンフランシスコ大地震を例にあげ、「発災直後から略奪が始まった。市長は実弾を装備した警官150人と、1500人の軍隊を率いて前進し、警告のうえ射撃を行って2人の犠牲者を出したうえ治安を回復した」とするが、特定の民族を数千人もリンチで殺してしまったこの事件と並べて論じるのは無茶ではないだろうか。
 それにしてもなぜ、他の出来事との共通点ばかり論じようとするのだろう。この事件はむしろ、類例のない特異な事件ではないだろうか。
 五百籏頭氏は「朝鮮人が略奪や暴行を働いている」という流言飛語について、吉村昭の小説を引用して次のように書く。

 起源は激震地・横浜である。立憲労働党総理を名乗る山口正憲が避難民を扇動し、決死隊を組織して集団略奪を、地震発生4時間後の9月1日午後4時ごろに開始した。赤い布を腕に巻き、日本刀などをかざして商店を襲い、食糧や金銭を強奪した。その襲撃は17回に及んだという。それへの恐怖が折からささやかれ始めた流言と結びついた。朝鮮人による集団攻撃と誤認されたのである。そのリアリティーを帯びた流言が、横浜から東京へ北上したとする。 http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c2.html

 ここには「朝鮮人による集団攻撃と誤認された」のは「襲撃への恐怖が折からささやかれ始めた流言と結びついた」ためとある。では、その「流言」はどこから出てきたのだろうか。それこそが追及されねばらならないデマの根源ではないのか。
 そのことにふれた書物もある。韓桂玉「『征韓論』の系譜」(三一書房)では、おそらく吉村昭が使ったのと同じ資料(「右翼の歴史−激動の大正・昭和史への証言」都築七郎」)が引用され、

 立憲労働党(山口正憲党首)が『一見して左翼風』のいでたちで赤旗を先頭に『皆ついて来い!』と先頭に立って横浜税関倉庫に侵入、群衆も後から押し入って食料を運び出し分けて食べた。そのうえでこの右翼集団は『不逞鮮人が爆弾で税関倉庫を破壊した』『アカどもが税関倉庫をの食料を略奪した』とデマをふりまいた。これがそのまま内務省に『朝鮮人社会主義者横浜税関略奪事件』として報告された。 

としている。これによると、自然発生的に「不逞鮮人」のデマが湧いて出たのではなく、略奪行為を働いた当の立憲労働党の面々がデマをまき散らしたのである。ここを落としてはならないのではないか。
 同様に気になる箇所がある。

 警察は当初、流言の報告があると真偽を確かめるため現地を調べた。結果はことごとく事実無根であった。警察はその旨言って聞かせたが、人々は納得せず怒り出す始末であった。2日午後には「不逞鮮人」が「放火略奪を為(な)せり」とか「婦女を殺害せり」とか、切迫した事実の目撃情報が頻繁に持ち込まれた。いちいち確認する余裕もなくなった各警察署は事実情報として警視庁に報告した。数多くの重複情報を受けた警視庁もこれを事実として受けとめるに至った。2日夕5時ごろ、警視庁は各署に対し、「災害時に乗じ放火その他狂暴なる行動に出(い)づるもの無きを保せず、現に淀橋、大塚等に於(おい)て検挙したる向あり」と指摘し、「不逞者に対する取締を厳に」するよう命令した。被災地の電信、電話がすべて途絶した中で、海軍の船橋送信所のみが健在であったが、それを用いて後藤文夫警保局長名の電報が発信された。「震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し」と断定し、全国各地においても「鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし」と指示した。http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c3.html

 ここでも肝心なことが抜けている。警察は当初、朝鮮人に関する流言について「事実無根」と人々に言い聞かせていたにもかかわらず、なぜ9月2日夕刻には「不逞者に対する取締を厳にするよう命令」することになったのか。「数多くの重複情報を受けた警視庁もこれを事実として受けとめるに至った」とあるが、どういう経過で「事実」と受けとめられ、命令が出されたのか。これはこの事件の決定的に重要な点だと思うが、何も触れられていない。

 最も重大な瞬間に、警察が興奮した自警団なる暴徒の認識に同調したことは、汚点であるといわねばならない。

 平時の犯罪を取り締まる警察の体制は、異常事態にあっては実力に限界があった。

とあるだけだ。
 もう一つは軍の動向だ。

 未曽有の被災の中で狂乱状況に陥った武装群衆を鎮圧するには軍隊の出動しかなかった。戒厳令によって大きな権限を与えられた軍隊が本格的に出動することにより、9月5日ごろから秩序は回復に向かった。当時、日本陸軍の総兵力は21個師団であったが、ほぼ6個師団に相当する大軍が投入され、治安回復をもたらすとともに、災害復旧に決定的な役割を果たした。民間の活動の困難な被災地にあって、陸軍の工兵隊は、道路啓開30キロ、90の橋、水路21キロ、72カ所のがれき処理、電話線架設880キロなど、めざましい働きによりライフライン復旧に貢献した(波多野勝・飯森明子「関東大震災と日米外交」)。http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c4.html

 混乱が極まってようやく戒厳令を発令、軍隊出動となったように読める。が、実際は地震発生の翌日(2日)に戒厳令は発令されている。「帝都復興秘録」にはこう書かれている。

 翌朝(9月2日)になると人心きょうきょうたる裡にどこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎまで起こった。大木鉄道相の如きも朝鮮人攻め来るの報を盛んに噂して騒いでいるという報告をもたらした。早速、警視総監を呼んで聞いてみるとそういう流言飛語がどこからともなしに行われているとの事であって、そんな風ではどう処置すべきか場合が場合ゆえ種々考えてみたが、結局戒厳令を施行する外あるまいという事に決した。

 つまり、前述の警保局長が下した「朝鮮人暴動取締り」の命令は、戒厳令が敷かれた中、船橋送信所という軍(海軍)の施設から各所に届けられているのである。手違いで誤った情報を流しただけとは、とても受けとめがたいというべきではないか。歴史家のねず・まさしは「有隣」にこう書いているという。

 今日判ったことは、内務大臣の水野練太郎が、朝鮮で爆弾を投げつけられたことがあったり、大正八年の万歳事件(1919年の三・一独立運動)などから、『内地の朝鮮人が暴動を起こすだろう』と思ったこと、さらに政府が食料欠乏に苦しむ罹災者が当局の無策を恨んで暴動を起こすのを防ぐために、先手を打って、朝鮮人に対する蔑視と日本人の付和雷同性を利用して『朝鮮人暴動説』をつくり、その方向に向けるために、軍隊、警察、その他の機関を通じて流したことである」(「『征韓論』の系譜」)

 五百旗頭氏は上記のような「背景」には一切触れず、「(軍隊は)めざましい働きによりライフライン復旧に貢献した」ことを強調し、軍が大杉栄や、平沢計七ら組合員を殺害したことを「残念な汚点」というだけで片付けている。だが、はたしてそれはその程度のことなのか。
 軍自身が手を下した朝鮮人虐殺の証言はいくらもある。「救い主」だったかもしれないが、「悪鬼」でもあったがゆえに朝鮮人を虐殺し、アナーキストや戦闘的な組合員を殺したと考えないとつじつまが合わない。

 亀戸に到着したのは午後二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先ず列車改めというのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ回った。どの列車も超満員で機関車に積まれてある石炭の爐まで蝿のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人たちはみんなひきずり出された。そして直ちに白刃と銃剣のもとに次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧き起こる万歳歓呼の声、国賊朝鮮人は皆殺しにしろ、ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した(上掲書より。当時、習志野騎兵隊第十三連隊の少尉・越中谷利一氏の「関東大震災の思い出」)

 軍人の手記だけでなく、「血の九月」「民族の棘」など惨劇を目撃した市民の側からの証言集もあるにもかかわらず、五百旗頭はまったく触れていない。韓桂玉氏はこう書く。

 「流言飛語が飛び交う混乱のなかで、軍・警の殺りくを目の当たりにしながら、自警団の行動も凶暴化した。戒厳令司令部の通達によって、東京はじめ近県に三千六百八十九個の自警団が作られ、抜き身の日本刀、竹槍、木刀などを持って町内を巡回しながら『朝鮮人狩り』をやった」。(「『征韓論』の系譜」)

 他方、五百旗頭氏の結語は次の通りだ。

 今日とは異なる未成熟な市民社会だったともいえよう。しかし想像もできない悲惨の極みで情報暗黒に投げ込まれれば、人間とはどんな妄想にも陥りうる。さらに、揺れる集団心理を強硬論が包む時、精神の健全さを堅持できる人がどれだけいるだろうか。被災地にも速やかに電気が戻り、テレビにより世界の報道を浴びることのできる今日の境遇に感謝すべきなのかもしれない。http://mainichi.jp/select/news/20130113ddm004070016000c4.html

 水野内相の経歴にも軍隊による朝鮮人虐殺にも触れることなく、「未成熟な市民社会」「情報暗黒」「集団心理」と、巷の民衆の手だけが汚れているかのような書きぶりだ。五百旗頭氏は「今のマスコミではこの辺りが限界」と慮ったのだろうか。だが、歴史学者によるこのような事実の取捨選択の積み重なりが、歴史修正主義者による歴史教科書の書き換えを生じさせてしまったのではなかったか。以下のように。

 副読本をめぐっては、本年度の改訂で、軍や警察も朝鮮人虐殺に主体的にかかわった、との趣旨の記述が専門家により加えられた。ところが、市会の保守系議員が「歴史認識に影響を与えかねない」とこれに反発。山田教育長は「誤解を与える記述」として関係部分の改訂を約束し、職員を処分していた。
http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/kanaloco-20130123-1301230004/1.htm