掘り起こされた朝鮮人虐殺の歴史と語り継がれる日本人名士の美談

 一抹の不安を感じながら、川崎市教育文化会館で開かれた「関東大震災90周年記念シンポジウム―関東大震災から学ぶ多民族共生のへの道」を聴きに行った。「一抹の不安」というのは、もらったチラシに「この流言飛語を信じなかった人たちによって、川崎区の新田神社に朝鮮人約180名は保護・収容されました。この岐路に、多民族共生への道のヒントがあると思います」とあったからだ。
 関東大震災直後に虐殺された朝鮮人は推計されているだけで6600人、このうち氏名が分かっているのはたったの80数名に過ぎないとされる。その時の首相・山本権兵衛は国会答弁で「調査中」と答え、それから現在まで90年にわたり、政府は何らの調査結果も公表していない(当然、謝罪もしていない)。これは異常なことだと思うが、このような状態が続いているのに、180人の朝鮮人を守ったエピソードに注目する目的は何か?
 あらためて、この催しの主催を確認すると、「川崎市教育委員会教育文化会館」と「多民族共生のまちづくり企画運営委員会『川崎マウル(朝鮮語で村、里の意)』」となっており、「2013年度川崎市教育文化会館市民自主企画事業」として開催されている。
 主催者である「川崎マウル」の代表の話はやはり、川崎で殺害または重傷を負った犠牲者6人の氏名を紹介しつつ、川崎の土建事業者や町長、隣の横浜市・鶴見の警察署長が何百人かの朝鮮人をかくまって守った話だったのだが、話の筋としてはこの「4人の犠牲者に対して救われた大勢の朝鮮人」という図式が印象づけられる話だった。
 ただ、報告の途中でときどき、「新聞はこういう美談めいた話だけを取り上げるのではなく、当時の地域の人の様子を掲載すべきだった…朝鮮人が怖い思いをしたことが教育によって伝えられていかないという問題もある」と、報道が美談調だったのを批判したりするので趣旨が混乱する。しかも、市民たちが虐殺に加わらなかった理由として「隣近所として朝鮮人と交流があり、『あの人たちが井戸に毒を入れたりするわけがない』と、信頼関係が作られていたため」と結論づけらたのも釈然としなかった。これは「調査した結論」と言えるものだろうか。「気心が知れていたから殺さなかった」などという結論は、調査などしなくても分かることではないだろうか。
 つづいて川崎市議会の飯塚正良副議長があいさつ。市内・田島町の吉沢保三町長が朝鮮人180人を神社に保護したため、「鮮人親友会」(注)という組織から銀杯をもらい、しばらくのあいだ行方知れずになっていたが、それが最近発見された話をし、「今に生きる吉沢町長の精神を検討するよい機会。90年を機にその今日的な意味を考えたい」とした。
 ここまでが主催者らの報告だった。第二部は基調提起として、田中正敬・専修大学準教授が「朝鮮人虐殺を調査し、記憶する意味―『千葉県における関東大震災朝鮮人追悼・調査実行委員会』を例にして」の演題で講演した。田中氏の講演は先ほどの川崎マウルとは違って、厳しく日本政府の責任を問う内容で、美談めいた話は一つもなかった。催しの第一部と第二部の相反する関係は何なのかということは後で考えるとして、田中氏の話で心に残ったのは軍や政府が朝鮮人虐殺を主導した責任を明瞭に指摘したことであり、地域の人々の地道な研究で真相が掘り起こされたがゆえに、それが可能になったと指摘したことだった。
 ふつう関東大震災時の朝鮮人虐殺というと、「破壊と火災でパニックになった人々が流言飛語に乗せられ、自警団を組んで朝鮮人を殺戮した。軍がこれに乗じて反体制的なアナーキストや組合活動家を虐殺した」といった認識ではないだろうか。「学術書や教科書に書かれた関東大震災朝鮮人虐殺というと、『混乱の中、虐殺され」という表現が出てくるが、東京や神奈川は(震災のあった)9月1日、2日と早い段階から、官民一体というか、民間人だけでなく軍や警察が虐殺にかかわっています。が、埼玉北部では1日ではなく4日から始まり、軍隊は朝鮮人を保護する側に回っています。『混乱の中で』という言い方があり、慌てふためく人々が流言に乗せられ虐殺する―とイメージしますが、そうではなくてもっと人為的な要素がからんでいると私は考えています。つまり流言を流した人々がいる。朝鮮人を殺戮していった自警団も、必ずしも自然発生的に発生したのではなく、往々にしてお上が組織させています。しかも1日から3日の朝にかけて、内務省は『自警団を組織して朝鮮人を処分してよろしい』という通達まで全国に無線で知らせ、地域で警察がそれを触れ歩いているのです。つまり流言飛語は、極めて人為的に流された、そこには国家が深く深くかかわっているというのが私の持論です」。
 田中氏はその典型例といえるものとして、習志野・高津地区の住民による朝鮮人虐殺事件をあげた。
 日露戦争に出兵した騎兵隊の根拠地である習志野駐屯地に収容所が設けられ、5日、暴行や殺害を逃れて保護された朝鮮人、中国人が送られてきたが、「保護」とは名目ばかりで憲兵が思想調査を行い、怪しいと思った者をピックアップして殺害。のみならず7日には、地域住民に「朝鮮人をくれてやるから取りに来い」として来させ、住民らの手で殺させている。犠牲者として明らかになっているのは18人。「朝鮮人虐殺はさまざまな側面があるが、千葉の船橋習志野〜八千代は虐殺の象徴的な場所だと思う」と田中氏。
 たしかに、軍が虐殺の主導的役割を担い、民間人に命じて殺させてもいるという点では「象徴的な場所」だろう。
 ここで当然のように気づかせられるのは、「朝鮮人虐殺が被災の後の大混乱の中、パニックに陥った民衆がデマに乗せられて朝鮮人を殺した」という解釈には「誰がデマを流し」「朝鮮人を殺すようそそのかした」かという主語がないことだ。隠されてしまったと言ってもいいかもしれない。それは言うまでもなく、軍ー国家である。このように理解すればようやく、日本政府が虐殺関与の責任を認めず真相調査もしない理由が明瞭に認識できるように思われる。アジア太平洋戦争における戦争犯罪の扱い同様、隠蔽し、忘却に追いやるためではないだろうか。
 このようにみると、虐殺から朝鮮人を守った日本人のことを調べ、そこから多文化共生のヒントを探る川崎マウルの取り組みはあまりに時期尚早であることが分かる。まず明らかにされるべき軍と日本の民衆による朝鮮人虐殺の全容が、何ら解明されていないのだから。
 後日、この催しを共催した川崎区役所生涯学習支援課に電話してみたところ、「川崎マウル」は純粋な市民団体であり、前述のような調査をしたいとの提案があり、区として支援し、あの催しを開催したという。それにしても区によって選定されたのが、なぜ「日本人の美談の追求」だったのか。仮に、「日本人がいかに虐殺を繰り広げたかの追及」だったら、区役所は支援していただろうか?
 「軍の民間人への朝鮮人『払い下げ』」という決定的な事実が市民の手で掘り起こされ、人々に伝えられようとする時、別の市民たちによって、そうした事実を弱めるかのような調査がなされ、それを市が支援し、同じ催しの中で発表される。予定調和のように、朝鮮人虐殺の事実発掘と責任追及は中和され希釈される。「両者の言い分を聞く必要ある」と言いたいのかもしれないが、事の大小を考えたとき、「両者」と並列できる出来事でないのは明らかではないか。
 歴史の事実を伝えようとするたびに、それを踏みつけにするように歴史修正の「力」が発動される。そう思われてならない。

(注)「鮮人親友会」というのはどういう組織なのか。朝鮮人自らが「鮮人」という名前を組織名に冠するものなのか?実証的な裏付けは、まだなされていないようである。

いわれなく殺された人びと―関東大震災と朝鮮人

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地域に学ぶ関東大震災

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