丸山真男と邦男‐「無責任の体系」をめぐって

 むかし誰かが「丸山真男より弟の邦男の方がいい」と話しているのを聞き、さっそく丸山邦男の「天皇観の戦後史」を買って読んだ。戦前、「神」だったはずの天皇が「人間宣言」し、もとから平和主義者であったかのような態度をとる欺瞞を批判した著作だった。
 兄の丸山真男のほうは岩波新書の「日本の思想」を読んだが、何が言いたいのかよく分からなかった。後年、読んだ「現代政治の思想と行動」ほうがまだ分かりやすかった。
 その著書の中に「軍国支配者の精神形態」という論文がある。ニュルンベルグ裁判で悪びれずに侵略の意思を語るナチス幹部と、責任逃れのような曖昧な発言を続けた東京裁判の日本軍人を対比した論文だ。 
 たとえば、ナチ親衛隊長ヒムラーが「ロシア人やチェコ人がどうなろうと関心はない。関心を惹くのは、われわれがその民族を奴隷として必要とする限りにおいてのみだ」とナチズム全開で語るのに対し、元朝鮮総督の南次郎は極東軍事裁判で検察官から「なぜ聖戦と呼ぶのか」と聞かれた時、「聖戦と一般に言っていたから、ついそういう言葉を使った。侵略的というような戦争ではなく、状況上余儀なき戦争だったと思っていた」(!)と答えている。丸山真男はこうした日本軍人の姿を「主体性を喪失して盲目的な外力にひきまわされる日本軍国主義の『精神』」とたとえ、「日本ファシズムの『無責任の体系』の素描である」と書いている。
 この「無責任の体系」という言葉は戦後、大きな事件を起こした組織が幹部のリーダーシップの欠如のため、より事態を悪化させたり、トップが部下に責任をなすりつけ居座り続けたりするときにしばしば使われてきたのでよく知られている。自分が属する組織で責任の押しつけ合いが始まると、自ずと浮かぶ言葉でもある。 
 丸山真男は「無責任の体系」の基本的類型として、最上位から「神輿」、「役人」、「無法者」の三つを措定し、軍幹部や佐官、民間右翼らはそのどれかに当てはまるとする。だが、この論文を一読してただちに疑問が浮かぶのは「昭和天皇の戦争責任についてはなぜ書かないのだろうか」ということだ(注)。
 哀しいかな、素人は「学問とはそういうものか」「丸山真男だからな」(?)で疑問に封印してしまうものだが、そうした安易なスルーの結果が現代の「丸山真男崇拝」というものだろう。アマゾンのブックレビューなどを見れば、それがよく分かる。
 だが実は、比較的早い時期に丸山真男ははっきりと批判を受けている。ほかでもない弟・丸山邦男の冒頭の著書で。丸山邦男は、天皇が対米戦を決断するにあたり、3ヶ月でカタをつけると上奏する杉山参謀長に対し、「支那事変は1ヶ月で片付けると言ったくせに4年かかって片づかない。支那は広いが、太平洋はもっと広い。3ヶ月で片づけられるという根拠を言え」と迫った話を引き、こう書く。

天皇をロボットであるとし、軍部にあやつられた”恍惚人間”として軽視し、そのような天皇の権限を至上絶対のものとした戦前の〈絶対天皇制〉に対し、あれは『無責任の体系』だったという定義を下した近代デモクラシーの復権者たちの思想は、まことに犯罪的であり、戦争裁判を通じて、国民大衆の天皇呪詛の感情をそらし、さらに、天皇個人の責任を免罪することによって、より無責任な『象徴天皇制下の戦後民主主義政治体系』をなし崩しに容認し、国民の中から戦犯追及のホコ先が天皇に向けられるのを巧妙にそらす役割を果たしたことになる」
 
 真男の論文を読んで「腹」や「背中」、「手足」は飽きるぐらい見せられて消化不良な思いでいたところに、ようやく肝心の「顔」が姿を現した感じがすると言ったらおおげさだろうか。「なぜ『無責任の体系」が成立してしまったのか」と考えた時、個人が負うべき責任を「絶対君主」に委ねられるがゆえに「無責任の体系」だったというのは一定の説得力を持とう。
 さらにその後の歴史を見れば、「責任」を問われた君主は「自分は絶対君主ではなかった。軍部のロボットだった。悪いのは東條」と責任回避につとめ、断罪から逃げおおせた。邦男が書くとおり「象徴天皇制下の戦後民主主義政治体系」がなし崩しで敷かれてしまったのである。
 「ようするにお前は肝心なことを述べていない丸山真男はあかんと言いたいのか」と聞かれたら、一義的にはそうだと答える。特に歴史の彼方に埋もれようとしている弟・邦男と比べたとき、「戦後政治学の神様」(?)のように祭りあげられている姿には疑問を感じる。今こそ、弟の思想が復権されなければならないと思う。
 だが、弟の的を射た批判をくぐった上であらためて兄の「無責任の体系」論を読むと、別の意味で迫ってくるものがある。
 たとえば東条内閣の外相だった東郷茂徳は日独伊三国同盟結成について問われ、「個人的には反対だったが、すべて物事にはなり行きがあります」と答えている。あるいは東條の辞任のあと首相についた小磯國昭も裁判でこんなことを話している。「われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、その国策に従って努力するというのがわれわれに課せられた従来の慣習であり・・・」。
 現代のこの社会においてこのような弁明ははたして絶滅したかというと、そんなことはないだろう。自分自身をふり返っても、こうした心境は克服し切れてはいないと感じる。戦後70年経とうが天皇が代替わりしようが、この社会は「無責任の体系」を乗り越えた経験を持たないのだから当然のことだろう。
 だとするならば、「象徴天皇」とははたして何かという疑問がわく。もはや「下々」から責任を委譲される「君主」ではない。だが、決して私たちと同じでもないのだ。
 彼を「今上天皇」と呼んで人々が無上の尊敬を示すのを見るとき、象徴天皇を頂点に、別種の「無責任の体系」が形成されているのではないかと疑いたくなる。特に、尊敬に値するリベラル、左翼の人々明仁、美智子に手放しの尊敬を表す姿に接すると、その感は深い(注2)。思考停止、判断停止。イコール「無責任」ということだ。


(注)天皇についてまったく記述がないわけではない。が、その書きぶりは、天皇重臣たちは天皇や自分たちに政治的責任が帰するのを恐れて天皇の絶対主義的側面を除去し、軍部や右翼は天皇の権威をふり回して立憲君主としての国民的親近性を薄めたとし、「天皇制を禿頭にしたのはほかならぬその忠臣たちであった」とあるのみ。天皇の戦争責任を論じるつもりがないことがうがえる文章である。
(注2)具体的には「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」の著者・矢部宏治氏をさす。矢部氏はあとがきで、自分はリベラル派と目されるが、「明仁天皇美智子皇后のおふたりに対しては、大きな尊敬の念をもっています」と書いている。


〔新装版〕 現代政治の思想と行動

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天皇観の戦後史 (1975年)

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