二冊の経済本—「資本主義はなぜ自壊したのか」と「小さな政府を問い直す」

 
懺悔するかつての「規制緩和の旗手」
 「資本主義はなぜ自壊したのか」(集英社インターナショナル)で、著者の中谷巌氏はソニー社外取締役として欧米の経営者らと接した際の印象として「『エリートは一般大衆と違うのだから、高い報酬を受け取るのは当然だ』という意識が混在しているように見受けられた」(62ページ)と批判的に書いたうえで、「マーケットメカニズムの思想」とは「エリートたちが上手に一般大衆を支配し、搾取することここそが可能な、もっともらしい制度や仕組み、ルールを作ること、それこそ階級社会におけるエリートの暗黙の思惑なのではないだろうか。・・・マーケットは経済活動における『民主主義』そのものなのである。そうした見事な民主主義の装いを持ったマーケットの仕組みがあるから、結果的に不幸なことが起こってもそれは民主主義的なルールに基づいて起こったことなのだから仕方がないということになる」(64〜65ページ)などと否定的な見解を示している。
 中谷氏はかつて米国型の市場原理主義の信奉者で、本書にもあるとおり、細川、小渕政権において規制緩和の旗振り役というべき存在だった。そのことを考えるなら、これは驚くべき発言というべきだろう。自らが長年依拠してきた考え方を自己批判しているのだから。それもそのはず、「まえがき」に「(構造改革の一翼を担った)『懺悔の書』でもある」と書かれている。
 何をもって「懺悔」と認めるべきかはおくとしても、次のようなくだりを読むと、氏が市場主義的、自由主義的な近代経済学に対し、批判以上にある種の嫌悪感さえ抱くに至っているようであることがうかがえる。
「筆者はグローバル資本主義新自由主義思想には本質的な欠陥や問題点が潜んでいること、気づくことになった。
 ひょっとしたら、グローバル資本主義とは言うなれば人類にとっての『パンドラの箱』であったのではないか。—現下の情勢を見るにつけ、私の心にはそんな苦い思いが湧いてくる。しかも、私はその蓋を開けることに荷担してしまった1人なのだ」(25〜26ページ)。
 氏のこのような「告白」を聞くと、規制緩和に対する批判は、セーフティネットを厚くするなど修正策を講じれば事足りるのか、規制緩和を支えた経済思想にまで疑いの目を向けるべきなのか考えさせられる。私としては中谷氏の、1つの極から反対側の極にまで行き着いた「振れ幅」の大きさにまず疑問を持たざるを得ないが、金融自由化が行き着いた先が世界的な大不況の到来だったことを目の当たりにしようとしている今、氏の考え方には一定の説得力が出てきているとみている。その傍証になるかどうか分からないが、別の本をあげる。


近代経済学って一体・・・
 学習院大学経済学部教授の岩田規久男氏が書いた「小さな政府を問い直す」(ちくま新書)である。岩田氏はミクロ経済学マクロ経済学の教科書や岩波、「ちくま」など経済学関係の新書も多数書いている著名な経済学者だが「規制緩和派」ではない。
 岩田氏は2005年末に起きた姉歯秀次・元建築士による耐震偽装事件で、建築確認制度がまったく機能しなかった問題について「民間への確認作業を開放した 98年度の規制緩和が問題になった。しかし、地方自治体の建築主事もまた見抜けなかったのだから、問題の本質は規制緩和にあるわけではない」という。そして、
「建築主は販売した住宅に対して10年間瑕疵担保責任を負うことになっている。・・・この制度の下では、建築主は損害賠償せずに済むように、瑕疵のない建物を販売しようと努力するようになることが期待される。しかし、建築主にそのような損害賠償能力がなかったり、10年以内に倒産してしまったりすれば、瑕疵担保責任があってもまったく意味がない。したがって、建築主が損害を賠償することができなくなった場合には、保険会社が代わって賠償するという保険と結びついていなければ、瑕疵担保責任は有効に機能しない。保険会社が賠償するとなれば、保険会社自体が指定確認検査機関となって、耐震偽装などを見抜く努力をするようになるであろう」と述べて、「耐震偽装事件の根本的問題は、建築主が保険に入っていなかったことにある」(79ページ)
と結論づけている。
 たしかに岩田氏の論理には説得力はある。だが、「地方自治体の建築主事もまた見抜けなかったのだから、問題の本質は規制緩和にあるわけではない」と、簡単に通り過ぎられてしまうと割り切れないものを感じざるを得ないし、「建築主が保険に入っていさえすれば起きなかった問題なのか」とも思えてしまう。まずは建築主事が見抜けないような分野が民間に規制緩和されてしまった是非を問いたくなるし、そうした保険に入っていない建築主が重要なポジションを占める世界で、保険加入の有無を確認することなく規制緩和をしてよかったのかと疑問を覚えるからだ。
 他の箇所からも引用しよう。
小泉政権による 04年の労働者派遣法改正は、労働者派遣の自由化を進めることにより、非正規社員を増やし、所得格差を拡大させた可能性がある。しかし、労働者派遣の自由化が進まなかったならば、雇用は実際よりも増えず、失業率は上昇した可能性がある。失業率が上昇したならば、所得格差は実際よりもさらに拡大したであろう。したがって、労働者派遣の自由化による失業率の低下を考慮すると、労働者派遣法改正が所得格差を拡大したとはいえない」(220ページ)
「労働者派遣の自由化が進まなかったならば、雇用は実際よりも増えず、失業率は上昇した可能性がある」—これはこれで経済学的にみれば正しいのかもしれないが、長年にわたり禁じられてきた労働者派遣の自由化についてここまで簡単に割り切る論理を展開されると、労働者の権利についてどう考えているのかと岩田氏に尋ねてみたくなる。あるいは「派遣労働は日本と韓国ぐらいにしか存在していません」(朝日新聞1月11日付け・京大名誉教授の伊東光晴氏)との指摘を氏はどう受け止めるだろう。
 さらに、これは後知恵でしかないが、岩田氏のいうような派遣の自由化を認めなければ2008年末に起きた「派遣切り」騒ぎもあそこまで大きくならずに済んだのではないだろうか。
 最後にもう1箇所。
地域格差の拡大は、『結果の平等』を追求する『国土の均衡ある発展政策』を放棄して、国全体の生産性を高める政策を採用することの代償である。長期的にみれば、この政策への転換は地域格差拡大という犠牲を払っても、国民全体をより豊かにすると考えられる。したがって、地域格差の拡大は阻止すべき政策課題と考えるべきではないであろう」(230ページ)
 経済学的にみて国全体の経済発展を考えたら、このような構想に行き着くのだろうが、こうまで書かれてしまうと、中立的(と私が考えてきた)な経済学者も、「規制緩和の旗手」も大差がないように感じられて困惑する。先の中谷巌氏の主張に首肯すべき点は少なからずあるように思う。

「小さな政府」を問いなおす (ちくま新書)

「小さな政府」を問いなおす (ちくま新書)