「マーケット・メカニズム」に思想なんてあるのか—「資本主義はなぜ自壊したのか」評への補遺

 中谷巌氏はその著書「資本主義はなぜ自壊したのか」で「マーケットメカニズムの思想」そのものを問題視した。「マーケットは経済活動における『民主主義』そのものなのである。そうした見事な民主主義の装いを持ったマーケットの仕組みがあるから、結果的に不幸なことが起こってもそれは民主主義的なルールに基づいて起こったことなのだから仕方がないということになる」。あるいは、「エリートたちが上手に一般大衆を支配し、搾取することここそが可能な、もっともらしい制度や仕組み、ルールを作ること、それこそ階級社会におけるエリートの暗黙の思惑なのではないだろうか」とも言う。
 だが、そもそも「メカニズム」に「思想」があるのだろうか。Wikipediaによると「メカニズム」とは「機械」であり「構造」である。ある事象が起きれば結果としてある一定の結論を自動的に—それこそ機械のように—導き出すのが「メカニズム」というものだ。そこに「思想」が入り込む余地はない。
 中谷氏は、同書の論旨からみて「マーケットメカニズムの思想」ではなく「マーケットメカニズムを絶対視する市場原理主義」を掲げて自己批判するべきだったのではないか。かりにそうした「マーケットメカニズム批判」が「マーケットメカニズム否定」まで行き着くとしたら、計画経済の道を選ばなければならなくなる。いま問題とされているのはそのようなことではない。「マーケットの機能」は所与のものとして受け容れたうえで、それを万能視せず、効率と同じくらい公正さの存在を確認できる社会を作るにはどうすべきかということが当面している課題なのだ。(別の言い方をすれば「市場原理主義」の問題点を正確には分析できていないという一点で中谷氏がきちんと『懺悔』したとは見なし得ないといえるのではないか。)
 ただ中谷氏の『懺悔』にはひとり氏の言動にとどまらない日本社会全体の「思潮」の問題が絡んでいるように思われる。
 よく言われる言い方に「市場原理主義者、構造改革主義者に審議会を乗っ取られた」というのがある。しかし事はそれほど単純ではないのではないか。審議会に新自由主義的な経済学者が委員として参加し持論をぶち上げたとしても、それに対抗する強力な意見がぶつけられるなら、論争することによりマーケットメカニズムのみにゆだねられるのではない許容可能な結論が見出されるはずだからだ。しかしそうならなかったのは、それほどまでに「マーケットメカニズム」の働きに対抗する、人や事物を護る対抗思想が衰退してしまっていることを表しているのではないだろうか。それはたとえば労働者や市民としての権利や環境保護といった多様な人間的権利を保護する思想である。
 経済学者は「正統なマクロ経済学の観点からみたらこうなる、だからこうあるのが最も効率的」と言っておればよい。それが彼らに期待された本来の役割なのだから。中谷氏の「懺悔」が中途半端、かつ一部意図不明なのも致し方ない。問題はむしろ、マーケットメカニズムに対抗する説得的な言論を作りきれないわれわれの側(除・経済学者)にある。