お坊ちゃまに庶民の願いは察知できない

あるベテラン個人タクシーが「最近はお客さんに声もかけられなくなった。下手をすると絡まれる」「事業者の笑顔がない。昔は個人タクシーでよかったと想えるときがあった」と話していた。
そう、たしかに世は殺伐としている。理由はそう複雑なものではない。努力しても報われない屈辱感にみな苛まれているからだ。この報われない閉塞感は、思想的に行き詰っている、とかそういう複雑な話ではない。働いたのに見合う余裕(主として経済的余裕だが、それさえあれば時間的余裕もできるし、いずれ精神的余裕を持つことにもつながっていく)がずっともたらされないことにいらだっているのだ。
私の友人の半年超の失業も、加藤何某の秋葉原での大量殺戮も実は社会がもう少し潤っていて、決して多くは期待できなくとも、ちょっとした労働条件改善がなされていれば起きなかったことかもしれないのだ。それはまさに現金な話なのであって、個々の問題は根本的には解決しないかもしれないが、何とかぎりぎり我慢して踏みとどまるにあけたり、存外その進退を決定づける要因になる事柄なのではないか。この「ちょっとした」事柄が運命を決するほど重要なのだろう。
 コレらが庶民の実相であり渇望なのだが、民主党政権が察知しえているとはとても思えない。彼等は教科書(マニフェスト)通りに改革に取り組んでいるにすぎない。
 いま一般庶民が渇望するものが何であるのかを肌で感じ取れない、見抜くこともできないところに彼等の限界がある。庶民ぶろうとしてもできないのだ。庶民の苦しみを汲み取れないお坊ちゃん集団といわれてもしかたがないだろう。