尖閣問題からー市場主義と国家主義

 尖閣問題についてはその後、衆参予算委理事らが海保の船と漁船の衝突に至るビデオを視聴して、記者取材に「ピューときてゴーン」とか「体当たり」「逃げ損ない」などと答える(朝日新聞夕刊)という、茶番劇の上塗りのような状況を迎えている。
 事態は、ロシアのメドベージェフ大統領が日本の外交能力の拙劣さを読み切って北方領土を視察する段階に入っているのだが、これら議員たちは自分たちがいかに無意味かつ愚かなふるまいをしているかに、なぜ気づかないのだろう。
 彼らが「映像だから真実を映し出している」と本気で考えているとしたらまったく救いがたいことである。ビデオは撮影のしかたによってどうにでも映すことができる。のみならず、編集によりいかようにも改変することが可能だ。(しかも編集したのは海保だ。)百歩譲って編集者が良心にのっとり、可能な限り「事実」に近い編集を行ったとしても、ただ「日本側で編集した」というだけで一切の客観性が失われてしまうのは自明のことだ。おそらく当事者である中国だけでなく周辺諸国も、この浅はかな児戯を嗤っていることだろう。
 おそらく私たち今、没落していく国の、ある典型的な光景を見せられている。
 (→と、モタモタしているうちに尖閣のビデオがユーチューブに流出した。皆、中国船が悪質と騒いでいるが、互いに領有権を主張している問題なのだから逮捕するべきではなかったという点では私の考えは変わらない。今こそナショナリズムの誘惑と闘わなければならないのだが、歴史から学んでいない人が多いようだ。)
 
 前置きが長くなった。尖閣の件で「唾棄すべき」ことを書いた、元大蔵官僚で大学教授の高橋洋一氏を取り上げると言ったが、腹立ちも収まり、ちょっと面倒くさくなっている。
 高橋氏は9/22のJ-CASTニュースで「2010年9月7日のこの事件で、海上保安庁は当時の状況をビデオ撮影しており、2度目の衝突について公務執行妨害の疑いで漁船の中国人船長を逮捕した。これに呼応して、中国側は、青年交流を延期したり、開催中だった日本の物産展を途中で打ち切ったり、日中閣僚間の交流も一時中止している。日本の立場からいえば、日本の領海内の事件であるので、国内法にのっとっているだけだ。しかも尖閣列島は日本の領土であり、日本の実効支配下にあるので、領土問題自体もありえない」(高橋洋一民主党ウォッチ「尖閣問題こじれさせる民主の外交オンチ」)と書いている。
 え、「そもそもこの記事の内容からして凡庸すぎる」って。たしかに保守派や反中派ならこの程度のことは誰でも書くだろう。ここであえて高橋氏を取り上げたのは、財務官僚の数々の所業を告発し、「埋蔵金男」と称され、すばらしい数学センスで竹中平蔵大臣の懐刀として活躍した人が、このような皮相で偏見に満ちたとらえ方しかしない(できない)ことに愕然としたからだ。私は同記事のブックマーク欄で次のようなコメントを付した。
「なぜ漁船が海保の船にぶつけたとの報道を鵜呑みにするのか。高橋氏はどうやって確証を得たのか。官憲はいくらでもそういう虚偽をやる。しかも日中漁業協定尖閣海域の取締権については何ら取り決めてないのだ。」
 私は上述の高橋氏の文章のいちいちに反論をしようとは思わない。投稿したコメントにあるように、何より、政府発表(マスコミ報道)を「鵜呑みにした」ことがまずもって問題だと考えるからだ。財務官僚や政治家の悪意や謀(はかりごと)をくぐり抜けて批判、告発を続けた氏にして、一体なぜなのか。
 けれども考えてみれば、財務省や政府部内を曇りない目で見ることができても、外交でも正しい態度を取ることができるとは限らない。そして、さらに踏み込むなら、高橋氏が仕えた小泉、安倍政権がともに極めつきの右派政権だったことの意味も考える必要があろう。
 高橋氏が右翼だと言うわけではない。私の知る限り、右翼的言動はこれまでほとんどないように思える。
 だが次のようは言えるかもしれない。
 氏はミルトン・フリードマンを信奉する市場原理主義者(それが言い過ぎなら、市場主義者)である。だとするならば、市場を第一とする思想からは、「共産中国」、もとい「社会主義市場主義の中国」あるいは「強権的官僚主義国家・中国」は邪道であり、市場主義・民主主義の国に変革させる必要があるとの結論が、おそらく必然的に導き出されよう。中国(北朝鮮も)を劣等視したり、偏見をもって視るイデオロギーを氏が抱く余地は十分ある。氏のJ-CASTニュースの論評の体制迎合ぶりを見れば、この推測のかなり当たっているように思われる。
 改めて取り上げることでもないような気もするが、私がブログで時に敬意を持って取り上げた岩田規久男飯田泰之、竹森俊平といった、いわゆる主流派経済学者もまた、「市場」に第一義的に信をおく点では社会主義共産主義に対しておそらく高橋氏と類似したイデオロギーをもっていることだろう。だが、今回のような問題が起きた時、「どうせ社会主義国だから」「独裁国家だから」と、一つの前提を立ててしまうと、深いところから問題を理解できなくなってしまうのではないだろうか。
 昨今、市場の機能のみに目を向けても必ずしも良いことばかりではないとの見方は各層、各方面に広がり始めている。たしかに自由な市場のもと、互いが得意なモノを生産、輸出し、不得意分野のモノを輸入すればそれぞれの国富を増すのは一つの真理である。だが、グローバルに展開するマーケットにおいて各国は互いが競争相手であり、国民レベルー情緒的な用語を使えば庶民レベルで他国民との競争を強いられることでもある。端的にいえばそれは、あくせくと働くなか、「チャンコロ」や「チョーセン」が「自分たちを出しぬいて良い目を享受しているに違いない」との疑心暗鬼に陥らされやすい仕組みだということだ。昨今のこの国のナショナリズムの盛り上がりは、このことを証し立てている。
 なぜ冷静になることができないのだろうか。本当は、上海で広州でソウルで釜山で、人々は私たちと同じ苦しみ、鬱屈、喜びを抱いて生きているのだ。「市場」は人の心に狂騒をかきたて、そんな単純な事実を瞬時に消し去ってしまうようだ。
 神野直彦は「人間回復の経済学」(岩波新書)で、

市場主義は国家主義との親和なしには成立しないのである。それはサッチャーにしろ、レーガンにしろ、自他ともに許す国家主義者であったことを想起してもらえば、容易に理解できるはずである。市場は国家の暴力による強制力なしには機能しない。・・・中略・・・市場主義は、国家が暴力を行使する組織として純化していることを主張しているにすぎない。

と書いている。その通りだと思う。私のこのブログには市場の働きをかなり肯定的に評価した文章があるが、軌道修正が必要な時期を迎えたと感じる。

人間回復の経済学 (岩波新書)

人間回復の経済学 (岩波新書)