放射能を忌避し、被曝を恐れることに誰が「差別」のレッテルを張るのか

 「黙然日記」というブログに「産経抄原発神話観。」という文章が掲載された。http://d.hatena.ne.jp/pr3/20110922。愛知県日進町で福島からの花火の打ち上げを市民の抗議により中止した件について、「≪こっち側≫と≪あっち側≫を区別する、あえて言えば差別の構造がそこにはある」と書いてあった。
 私も産経をバカにすることにおいては人後に落ちないつもりであるが、見過ごせない内容だったので、次のようなコメントを送った。
 「≪こっち側≫と≪あっち側≫を区別する、あえて言えば差別の構造」とお書きですが、「被曝を恐れること」と「差別」は全然違うと思います。日進町の花火の件も、汚染度調査などやっていなかったと思います。そのことを理由に懸念を示すのは何ら卑劣なことではありません。「差別」とのレッテル張りは政府・東電への責任追及の手を緩めさせるとともに、結果として推進派を喜ばせることになるでしょう。」2011/09/24 12:43
 すると、黙然日記」管理人氏から、以下の返事があった。
「 削除なさっていますが(注:削除はしていない。管理人氏の勘違い)、返答いたします。書いてしまったからということもありますが、重要だと思うので。
 差別論に踏み込むと長くなるのですが、今回の件ではたとえば、福島から転入した子供に「放射能がうつる」などと明白な差別が行われた例があるわけです。その根底にあるのが≪こっち側≫と≪あっち側≫の発想ではないか、ということです。
 花火によって拡散する放射性物質が限度を超えているなら、その花火を製造している職人の健康・生命はどうなるのでしょうか。まったく無関知でしょうか。それこそが≪あっち側≫の発想でしょう。一瞬の花火でさえ問題になるレベルの汚染があるなら、そこに住んで働く人々を今すぐ助けなければならないというのが、正常な人間の思考ではないでしょうか。
 これは、東電・政府の責任を追及することはまったく別だと考えます。」
 私はこれを読んで、少しでも被曝の危険を減らそうと努める人々に対し、差別というレッテルを張る管理人氏の発想は問題だと感じ、次のような長いコメントを先ほど送った。
 「私は前便で、あなたが日進町の花火中止の件で「≪こっち側≫と≪あっち側≫を区別する、あえて言えば差別の構造」と指摘されたのに対し、「被曝を恐れること」と「差別」は全然違う、と反論しました。
 まず、お書きになっている「福島から転入した子供への差別の件」については、私は一切触れていません。私は、あなたが提起した日進町の花火についてコメントしているのです。あなたがここで、あえてわざわざこの議論の中に存在していない例を持ち出す真意を測りかねます。
 その件についてあえて言うならば、その子の衣服、持ち物の汚染度の検査をし、安全性の確認はする必要があると思いますが、そうしたことをした上でその子を忌避するなら、それは「差別」ですから絶対に容認してはなりません。
 なぜ、あなたはわざわざ「あっち側とこっち側」という概念を立てて、被曝を懸念する側を「あっち側にいるから差別」と認定しようとするのでしょうか。被曝の懸念から役所に花火を中止するように訴えた行為自体、当然のことであり、これ自体に何ら差別性はありませんよ。あなたの幻想です。
 被曝の問題には「あっち側」も「こっち側」もなく、すべての人があらゆる努力で被曝を避けなければならないと思います。原則はそれしかありません。 
 「花火を製造している職人の健康・生命」についても同様です。これも、ここで論点となっていない存在を唐突に持ち出してきて、「あなたはどう思うのだ」と問うのはフェアではありませんし、しかも「それこそが≪あっち側≫の発想でしょう」などと糾弾するのは言語道断な論法です。
 これについてもコメントする必要を感じませんが、あえて言うなら、放射性物質が限度を超えている、あるいは超える恐れがあるのなら、その花火職人は作業をやめなければなりません。その作業でかりに健康被害が生じたならば、政府なり自治体になりに補償させなければなりません。(もちろん休業補償も)。
 「そこに住んで働く人々」も同様に、危険なレベルの汚染があるなら、避難しなければならないのは当然のことです。日進町の市民も私も、誰も放置してよいなどとは言っていません。「正常な人間の思考ではないでしょうか」とは、一体どこの誰に、何を根拠に投げつけた糾弾でしょうか。
 「東電・政府の責任追及とは別」と書かれていますが、被曝を恐れ、忌避せねばならない、従来とは打って変わった生活への怒りがあるからこそ、われわれはその原因を作った政府・東電の責任を追及しているのではありませんか。あなたのように「こっち側」だの「あっち側」だのと差別のレッテルを張る言動は、人々の原発への当然の怒りを、差別というレッテルで掣肘していると言わざるを得ず、結果として人々の責任追及の力を抑え込む議論だと言わざるを得ません。
 なお、私もブログを持っています。あなたのおっしゃる通り重要な議論だと思いますので、やりとりを転載させていただきます。」2011/09/25 21:28
 放射能汚染を忌避し、可能な限り被曝を避けることは、人間として当然のことである。そのことを「福島に対する差別」だと難じる議論がここにきて増えつつあるように思える。たとえば、「非国民通信」というブログの「レイシズムに取って代わったもの」http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/061001b2e5c2aa1676e1ef64bed77cdbは、日進町の花火打ち上げに抗議する人々の言動を、何とヘイトスピーチ扱いしているのである。そのことから分かるように、この題名は、「放射能忌避」という福島への差別が、従来のレイシズムにとって代わった言わんとしているのだ。
 まさに「黙然日記」などはるかに上回る支離滅裂ぶりだが、「非国民通信」がさらに問題なのは、別稿であからさまに東京電力を擁護していることだ。
東京電力はよくやっているのに http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/0810d124f5307095f22554fac542e8ec
 これを読むと、このブログの背後にも目を凝らさねばならないのではないかと思えてくる。
 福島第一原発放射能汚染問題は熾烈なイデオロギー操作の段階に入った。何が差別かを見極める思考力が不可欠になっている。