被曝忌避を差別問題にしたい人たち—2つの記事と1つのツイートから

 産経新聞10月1日付け「都のがれき受け入れ 『放射能入れるな』苦情多数」(http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111001/dst11100108470002-n1.htm)を読んだ。東京都が岩手県宮古市のがれきを受け入れ、処理しようとしたら都民から苦情が寄せられたという話だ。

 都環境局によると、受け入れが発表された9月28日夜以降、29日に162件(電話129件、メール33件)、30日に283件(電話222件、メール61件)の意見があった。大半が「被災地支援も分かるが、子供がいて不安」「放射能を入れてくれるな」などと受け入れに反対する内容という。
 来年3月までに岩手県宮古市のがれき計1万1千トンを処理する予定。鉄道で都内の民間破砕施設に輸送して処理後、東京湾に埋め立てる。このがれきを処理した焼却灰を岩手県が検査したところ、1キロ当たり133ベクレルの放射性セシウムが検出されたが、国が災害廃棄物の広域処理で定める基準値(1キロ当たり8千ベクレル)を大幅に下回っている。

 これは、愛知県日進町での福島産の花火の打ち上げをめぐっての報道や、京都の五山送り火での岩手県陸前高田市の薪の扱いをめぐるニュースと同じだ。つまり、何に焦点が当たっているかというと、被曝を懸念する住民の数々の苦情がクローズアップされており、科学的根拠の薄い被災地差別ではないかということが匂わされている。
 報道というのは何に焦点を当てて取り上げるか、どういう角度で取材して書くかでまったく違った内容になる。私も長年、業界紙の記者をしているので分かる。「住民の苦情」だけに取材を絞ったら、必ず、ことさらに「住民エゴ」が強調される記事ができあがる。
 さらにここに、被災地の人々の「つらい」とか「ひどい」というコメントを載せられれば完璧だろう。
 なるほど、本気でそのように感じてそうコメントする人もいるかもしれない。だが、記者が誘導して、欲しいコメントを取ることだって可能だ。あるいは記者が、「これってひどいと思いませんか」と質問し、相手が「そうだね」と同意したら、「現地の人は『ひどい」と口をふるわせて答えた」と書くこともあり得る(私はそんなことはしていないよ)。
 何を言いたいのかというと、こうした一連の報道にはある意図があるのではないかということだ。すなわち、被曝を避けようと行政に抗議する人々の行為を、福島や近県に対する差別だと印象づける一種の操作が行われているのではないか、ということである。
 考えすぎだろうか。だが、「差別」という言葉で被災地とそうではない地域との分断を作り出せれば、政府や東京電力にとっては有利である。という以上に、権力者がイニシアティブを取って事を進めたければ、何としても人々の分断を図ろうとするのは常識と言ったほうがよいかもしれない。
 しかも、政府は大したコストをかけることなく、それをすることができる。自治体の記者クラブで「住民からこんな苦情が来ていて大変」と発表すれば、正義感に燃える一本気な(単細胞な、と言いたいところだが)記者たちが怒りを込めて「住民エゴ」を糾弾してくれる。
 だが実は、このように「住民の苦情」ばかりを強調した報道が、物事全体を見ていない近視眼な仕事であることは、次の記事を見ると分かる。
 秋田魁新報10月1日付け「焼却灰、受け入れない選択肢も 大館市長『市民の理解なければ』」(http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20111001c
 これは、首都圏からの放射性セシウムを含む焼却灰の受け入れ再開問題に関する報道だ。

 同市はこれまで、焼却灰の受け入れ再開の意向を繰り返し示している。処分場のある花岡地区で9月17日に開いた住民説明会で、小畑市長は「しっかりしたデータを公表し、安全性を訴えていく」などと述べ、受け入れ再開への理解を求めていた。会見で小畑市長は「(受け入れ再開を)一方的に決めることはない」と述べた上で、「市民の理解が得られなければ再開はできない。受け入れないという選択肢は十分ある。

 この記事にしても、大館市民の「焼却灰を受け入れるな」という抗議の場面にのみスポットを当てていたら、先の産経記事同様に、「自分がかわいいだけで、被災地のことを考えていないのかお前ら」的な報道になっていたことだろう。だが、それは生起した事態の一面でしかない。よりトータルに見渡す視点に立てば、この秋田魁新報のように「そうした市民の声を受けとめて、行政としてどう広報し、説得を試み、判断をするのか」を報じる記事になるはずだ。今回の一連の騒動は実は、行政の姿勢こそが問いただされている問題だったのだと思う。 
 さて、こうやって被曝忌避を差別問題に仕立てるのはマスメディアだけではない。一般人も大して変わらない。ツイッターでも@chiekk 鎌田千詠子 (旧姓:北澤) というアカウントの札幌の女性が
「私はずっと福島の子供たちを心配し応援してきたけど、将来もし私のムスコが福島で育った女の子と結婚したいと言ったら大反対すると思う。福島から北海道に避難してきた子だったらいいけどね。でも5年後10年後に避難してもダメだね。」とツイートしていた。彼女は子をもつ親として、自分なりに被曝への懸念を語り続けてきたのだろう。だが、そんな中で自らの持つ偏見があからさまに漏出してしまっている。
 このツイートに対し、私は以下のように返信した。
@takammmmm takayamitsui 三井貴也
「被曝を避けて移住したりするのは当然の行為だが、子へのあなたの発言は差別。同じ人間として扱わんということでしょ。」
 人々を偏見に陥らせるワナが張りめぐらされている。一方的な思いこみを排し、想像力をめぐらせることが問われている。