「増補 民営化という虚妄」(東谷暁 ちくま文庫)の虚妄ぶり

 規制改革、規制緩和の妥当性を説く著作を意識して読んだきたたので、逆の考えから書かれた書物も読む必要があると考えたが、これは耐え難いものがある。
 著者は民営化を徹底的に批判しており、規制改革もボロカスにくさしている。私は規制改革のマイナス面、さらに致命的な欠陥について常に知りたいと思っている。規制の問題について私の判断はきちんと固まっていないからだ。
 だが、この著書の場合、これだけ紙数を費やしていながら、徹底的な批判にはなっていない。主たる手法が相手の言動の整合性の欠如を問うか、相手が提示した一つの概念をこねくり回し、想像をめぐらせてその想像した内容に批判を加えることによって著者をも批判したつもりになっているからだ。高橋洋一などへの批判は面倒だから詳細は触れないが、一種の揚げ足取りで終わっている。
 分かりやすいので(なぜか)小沢一郎を批判した箇所をあげると、東谷によると小沢一郎は今でこそ「生活第一」をかかげて自民党新自由主義政策を批判しているが、「自己責任」という言葉を誰よりも先に使ったのも小沢一郎だった、としたうえで、

「「自己責任」という言葉が、どのような使い方をされたかを思い出すだけで、いかに非倫理的かつ非道徳的なものだったかがわかる。金融にはほとんど無知の人間が、詐欺同然の金融商品を買って大損しても、それは「自己責任」なのである。また、イラク人道支援にいってゲリラに捕まっても、それは「自己責任」だから、日本政府は殺されるままに放っておいてよいいうのだった。」(271ページ)
 
 この文章には何重ものごまかしがある。いくら過去に小沢が使った言葉がのちに上記のように使われたとしても、上記引用内容は直接的には小沢には関係がない。にもかかわらず「非倫理的」「非道徳的」という言葉をぶつけることにより、小沢についてことさらマイナスイメージをかぶせる印象操作が行われているのだ。手法としてはかなり卑劣といえよう。
 さらにいえば金融で大損をした件とイラク人道支援に行ったケースを同列に論じる粗雑さも気になる。が、かかわりになる時間がもったいないのでやめる。
 なぜこうした非論理的な批判—これは形容矛盾かもしれない。もとい、—非論理的な中傷といってもよい非難が通用するのだろう(ちくま書房ともあろう伝統ある会社がこのような書物を出版してよいのか)
 規制緩和、規制改革派と規制護持派の戦いは実はさまざまな層の利害対立だが、東谷の筆致からは、規制をぶち破って台頭しようとしている新支配層に対する旧くからの保守的な支配層の苛立ちが感じられる。意識してそうした層を代弁しようとしているのかどうかは分からない。評論家でいえば佐伯啓思氏に思想的に近いように思われる。
 しかしそうした方向からいくら民営化批判をしても、その利害関係の埒外にある一般市民には響いてこない。一市民の立場からみて民営化や規制改革、規制緩和への不安とはその大きな変化の影響によって自分たちの生活や労働がどれほど脅かされるのかという点にかかっている。大方の場合、こうした影響は避けられない。それゆえに民営化、規制改革はこの視点からこそ、常に検証され、批判されなければならない。
 同書はかなり名の通った本だが、上記のような疑問、不満ゆえ、内橋克人よりも私の評価は落ちる。
 この点、やはり社会主義陣営からの民営化批判の方がまだましのようにも感じられはするが、こちらの方の批判は「民営化や構造改革によって、いかに弱者が悲惨な生活に陥ったか」だけに終始しがちなのが不満である。

増補 民営化という虚妄 (ちくま文庫)

増補 民営化という虚妄 (ちくま文庫)