「脱貧困の経済学」(飯田泰之・雨宮処凛、自由国民社)の素晴らしさと限界

本書はいろいろ示唆的な記述があるので抜き書きしておく。

87ページ 「小泉、橋本、経団連」は不況のときに構造改革をした、という意味で最悪・・・元日銀総裁速水優氏とか与謝野氏は「構造改革をやっているのに不況を放置した」・・・構造改革がなければだいぶましだった側面もあるし、逆に構造改革をやっても、不況対策として財政政策とか給付をばんばんやってくれていればましだった・・・」
92ページ 「なぜこんなに貧富の格差が広がったんですか」と問われたら、僕はいつも「金持ちを減税して貧乏人に増税しているんだから当たり前です」と言います
104ページ 新自由主義者だったら「経営者の席こそ徹底的に国際競争すべきだ」と言うはずです。だから彼ら(八代尚宏ら)は新自由主義者じゃない。貧しい人には新自由主義を、金持ちには既定路線を、という「いいとこどり」をしているだけなんです。いま「新自由主義」ってもっとも批判しやすいものだと思いますが、実は今日は、雨宮さんの「敵」は新自由主義じゃないだろう、という話を一番したかったんです。
156ページ 景気が良く、成長もつづいていると階層がシャッフルされる。
157ページ 03年から06年にかけての最大にして最強のタイミングでは、小泉内閣と日銀の双方によって「日本経済を鍛え直す」「景気の過熱を防止する」という名目で好景気の芽は摘まれてしまいました。
167ページ 1990年代後半以降の日本の経済政策は。競争政策の推進による経済成長の実現を目指しました。これは理念的にではなく、方法論として誤りだったのです。順番の手違いによって生じた悲劇を、資本主義の根本的な問題と取り違えてはなりません。
188ページ エコノミストでもそういうことを言う(ビンボー人に我慢を求める)人はけっこう多い。それは彼ら主要なお客さんがそこそこお金を持っている人だからなんです。・・・だから「金持ち増税」なんていうと、仕事が来なくなってしまう。 

・・・飯田という人はなかなか良心的なマクロ経済学者だとは思う。この資本主義制度の枠内で可能な限り、弱者の立場に立った提言をしようとしているのは感じることができる。だがそれは「この制度の枠内において」という意味にとどまる。
 彼の主張は端的にいえば「マクロ経済が貧者に対してここまでのことであればできる。これが制度内の限界なのだから、貧者の皆さんはそれさえも揺るがしてしまうような過激な行動は控えてもらったほうがよい」ということだ。
 だが実社会の貧者・弱者はそう言われても、絶望や怒りや悲しみのため「はいそうですか」と聞いてくれるものではない。あるいは「死刑でいいです」の山地悠紀夫のような、精緻化されていくこのシステムからこぼれ落ちていく人たちは、いくらマクロ経済学が理想的に展開できたとしても、それだけでは決して救われないのである。「第三の道」論者はこんなとき「セーフティネットを」と言うのだろう。(ちなみに同書の雨宮の主張は「第三の道」程度で納得する穏当なものにとどまっている。活動家ならもっと飯田君に噛み付かなきゃ)
 だが、日本ではかりに自由化と同時にセーフティネットを張ったところでまったく間に合わない。そのことこそが日本社会の大問題なのではないだろうか。
いかにマクロ経済学上、飯田氏の言うことが正しくとも、そのような次元に立って物事を見たり感じたりする余裕のまったくない貧者たちは飯田氏の言うことに耳を貸さず、抵抗を続けるだろう。彼のマクロ経済学をもってしてもそうした人たちを説得することはおそらくできない。
 彼のマクロ経済学の説明に説得力があればあるだけ「マクロ経済学」という近代経済学の一部門の限界が目に見えるような気がしてくる。

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる