なんでこんなに違うのかー伊藤元重「危機を超えて すべてがわかる『世界大不況』講義」

 経済学を体系的に勉強したことのない人間が経済学者やエコノミストの著作について喋々するというのは考えてみればなかなか大胆な行為なのだろうが、私自身がいつのまにかそれをやってしまっている。高等学校高学年クラスで学ぶ数式が羅列されたら私はついていけなくなる。けれども論者の言に説得力があるかどうかは多少、数式が分からなくとも判断しうる。
 こう書くと、ポピュリズムへ傾斜する気配を感じる向きがあるかもしれないが、昨今の経済書・ビジネス書が勤労者・生活者にとっていかに重要な判断の基準になっているか、引いては政府の諸策に陰に陽に影響を及ぼしているかを思うならば、私も含む一般大衆がよってたかって議論をしてその著作を評価することは必要不可欠なことだと考えている。ゆえに私も「普通人としての判断」を手放さないようにしなければならないと思う。
 これまでここで取り上げてきたのは岩田規久男、原田泰、竹森俊平、野口旭、飯田泰之といった、いわゆる「リフレ派」といわれる人々(竹森氏は違うのかもしれないが)だったが、これはたまたま「構造改革論の誤解」(野口旭・田中秀臣東洋経済)を読み、さらに両人が関わった「エコノミストミシュラン」(太田出版)を繙き、それらの論に説得力があると感じたためで、ある意味、成り行きまかせだった。だがここで重要なのは彼らがリフレ派だったことではなく、総じて、「説得的だった」ということだ。
 だが、これから取り上げる伊藤元重氏の「危機を超えて すべてが分かる『世界大不況』講義」は残念ながらほとんど説得力を感じることができなかった。
 今回の金融危機に至る説明などは首肯しうる内容だったが、その処方箋については「なぜそういう方向に向かってしまうのか」と疑問を抱かざるを得ない箇所が多すぎるのだ。
 まず、
 23ページ「世界中で数え切れないほどの人がグローバルマネーの恩恵を受けている」
 として筆者はインド、中国を例にあげる。
 それはその通りだろう。そのようなことは普通にテレビニュースや新聞を見る人は分かっている。なぜこの時点でことさらにそのことを持ち出すのだろうか。いま論じ判断し対策を考えなければならないのは自分たちが住む日本社会の話だというのに。
 さらに無神経だと感じたのは
28ページ「もちろん景気対策は必要ではあるが、ここは覚悟を決めて、日本社会を本当によくするような本格的な改革に取り組む必要があるだろう。経済が厳しい状態になるほど、大きな改革を断行するチャンスが生まれてくる」というくだり。
 今回の金融危機とそれに伴う大不況でもっとも打撃を受けたのがどのような人々であったかを思うなら、いま改革を断行したときどのような災厄がもたらされるかは明らかである。このような論は慎むべきではないだろうか。
 安易に消費税アップ「アイディア」を持ち出してくる(86ページ)のもいただけない。著者は166ページで「消費税を積極的に活用する理由」をあげ、「(消費税は薄く広く税をとれるので)不公平感が少ない」「(個人所得税は)あまりに累進度をあげていくと、いろいろな面で経済活力を殺いでいくことになる」との論を展開しているが、失望を禁じ得ない。経済学者がまず追求しなければならないのは、「あまりに累進度を上げていくと、・・・」などと粗雑な論を述べるのではなく、どこまで累進度を上げることが経済学的に可能かを調べ、示すことではないだろうか。「不公平感が少ない」と結論めいたことを言っていいのは、そのあとだろう。
 前述の「脱貧困の経済学」で取り上げた飯田泰之氏と伊藤氏とで研鑽を積んだ学問の内容や範囲に大きな違いはないはずだが、両者の間でなぜこれほど見解の相違が生じるのかは実に興味深いことだ。あるいは、飯田氏のような人物が脚光を浴びなければ、このような比較検討は成り立たなかったと言うべきだろうか。

危機を超えて──すべてがわかる「世界大不況」講義

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