「他者」に寄り添う栄光と懸念−「イスラムの怒り」

 またも「極東ブログ」の書評を読んで購入した書籍から。
 本書は冒頭、2006年のサッカー・ドイツワールドカップ大会の決勝戦ジネディーヌ・ジダンがイタリアの選手に頭突きを食らわせて退場になった事件を取り上げている。
 あの時、私はジダンが差別的な言辞で侮辱されたことに反撃したことは理解したけれど、それがどのような侮辱であったかは分からなかった。ただ「ジダンは我慢できずにキレてキャリアを台無しにした」との論評に対しては「違う」と思っていた。彼はキレてわれを忘れたわけではない、自らのキャリアが傷つくことを分かったうえで頭突きに踏み切ったに違いないと思っていた。
 本書はその侮辱が彼の姉に対する性的なからかいであったことを明らかにし、こう書く。
 「この種の発言は確実に暴力を誘発する。親族女性の身体的な特徴や印象、たとえばセクシーとか胸が大きいというようなことをムスリムに言った場合、確実にひどい不快感を与える。侮辱する気がなくても、自分の女性親族に対する性的な言動は家族として守るべき名誉をひどく傷つけられたように感じるのである。そして性的な侮辱に対する反応は、瞬間的に暴力的なものになる」(13ページ)
 さらに
 「・・・インタビュアーが、『では、頭突きを後悔しているのですか?』と尋ねると、ジダンは、『後悔していない』ときっぱり答えた」(26ページ)
 これらを読み、当時の自分の予想が間違いではなかったらしいことを知るとともに、著者が「他者(この場合はムスリム)」の前に立ったとき、彼我どちらの側かといえば「彼」−向こう側−に立って考える人物であることを理解した。ムスリム関連の著書を読むときこれはきわめて重要な基準である。立ち位置によって描かれ方が大きく異なってしまうからだ。(イスラム原理主義」という用語の学問的敗北Commentsを参照。)
 たとえば日常的に使われるようになってしまった「イスラム原理主義」という用語の学問的正統性のなさについても本書は触れている。
 「いったい連中(イスラム革命を起こしたイランの人々)は何者なのだ。アメリカは大混乱に陥った。イランのことも、イスラムのこともよく知らなかったのである。そこで、アメリカ国内で、キリスト教徒の一部にいた狂信的で頑迷な信者を指す『原理主義』という言葉を、そのまま『イスラム』にくっつけてしまった。いまや世界中で使われているイスラム原理主義という言葉は、怒りのあまり、相手の姿が見えなかったアメリカが、その場しのぎにつくりだした造語だったのである」
 著者はシリアやトルコの大学で研究していただけに、日常生活のレベルでムスリムの機微を理解できているようだ。実は私もシリアやトルコ、イラン、パキスタンといった国々を数ヶ月旅行し、現地の人々と接した経験がある。
 その時、敬虔なムスリムと見える男性たちが日本を含む外国人旅行者に対し、色目を使ったり、実際に同意を得て行為に及んだりしたのを見聞しており、「本国人女性にはできない欲求不満を外国人女性に振り向けているのか。これは非ムスリムへの軽侮ではないか」と不信の念を抱いたことがあったが、これについてもそれなりに説得力ある説明がある。
 著者は「たしかに相手が異教徒の場合、イスラムの行動規範のタガが、はずれやすい」と認めつつも、男女交際に関する明確なコードの違いがあることを指摘する。「ムスリムの女性は、街で声をかけてくる男を絶対に相手にしない」ものなのだから、逆に外国人女性がデートや食事をともにした時点で「その先もOK」という期待を否応なく引き起こしてしまうというのだ。ここに誤解や衝突が生じる文化的な「溝」がある。誘われる側もそうした違いを理解して、最初からナンパに乗るべきではなかった、ということになる。
 考えてみればそうである。「食事やデートしたからといってセックスまで OK と考えるのはアホ」というのは日本人である私の男女交際コードに過ぎない。これとは違う規範に生きてきた男が当然のようにセックスを期待したからといって「品のない女好きな男」とレッテルを貼るのは確かにかわいそうだ。
 ムスリムが「因果律を重視しない」という指摘も、彼らと深くつきあった著者ならではのものだろう。著者は「アラブ人もトルコ人も前にスピードの遅い車がいると、抜かずにはいられない」として、彼らが事故とその原因の因果関係を重視していない、因果関係が分かっていても「因果関係を行動に反映させない」ことを指摘してこう書いている。
「神(アッラー)は絶対者であり、全知全能の存在である。したがって神は、あるできことを、原因から導く必要がない。『在れ」と思えば、そこに事物が『在る』。そういうことができるから絶対者としての神なのである。したがって、世のなかで起きることは、神の御意志によるのであって、神の手を離れたところに『原因』があって『結果』が生じると考える余地が、そもそのイスラムにはない」(206〜207ページ)
 これムスリムの心象風景を想像させてくれるカギとなるような表現というべきだろう。
 だが、ここで微かに懸念も覚える。そのような非合理的な思考方法で大丈夫なのだろうか。ムスリムをテロリストと同一視しかねない言動が乱れ飛ぶ世界に抗してムスリムの立場に立って発言する著者は、その思い入れのあまり、今度はムスリムイスラム教に対し無批判になってしまっているのではないだろうか。特に信仰の有無に関する著者の見解は、イスラムへの過度な思い入れからか歪(いびつ)なものを感じさせられる。
「頼れる神様を失ってしまうと、生きていくことの辛さを味わうことになる」「信仰を捨てて、そんなに自由になれるものだろうか。信仰をもたず、日々ストレスと闘いながら生きている者が、少なくとも、丸投げできる神、すべてを委ねられる神をもっている人間を、軽侮することなどできない」(91〜92ページ)
 しかし、「日々ストレスと闘いながら生きている」にもかかわらずムスリムを「軽侮することなど」まったく考えていない人間は私も含め大勢いる。そのような、もはや信仰を持ち直して逃げ込むことはできず、冷静に絶望を見つめるしかない人間から見たら、ムスリムへの贔屓の引き倒しのように感じられる。(私自身についていえば、人間はできれば信仰など持たずにこの世の苦楽に耐えて生きていくべきだと考えている。)
 このことは決して付随的ではなく、暴虐への正当な抵抗や非道なテロリズムをめぐって判断が難しくなっている現下のムスリム世界をどう理解するのかという問題と直接的に関わってくる。
 著者は「イスラムでは自殺は大罪である。・・・絶対者たる神に対する究極の冒瀆だからである」と書く。だが、イラクやアフガンで自爆テロが相次いでいるのはなぜなのか。あれは自殺ではないのか。いかに自殺が厳禁されていようとも、現代の宗教的権威者が言い回しを工夫すれば「敵を殺す自爆は自殺ではない。神を称える勇敢な行為であり、天国が保証されている」と信じ込ませるのは難しいことではないだろう。全知全能の神のもと合理的思考が妨げられるとは実はこういうことであり、何よりも「あの世」の観念を信じ、結果として相対的に「この世」を軽視する危険とはこういうことなのである。それは容易にテロを引き起こす。そんな中にあってアルカイダやその種の者たちは自爆テロを勧め、実行者を称揚する。
 ここでわれわれが思いを致さねばならないのはパレスチナやイラン、イラク、アフガン、パキスタン等々でおかれたイスラム教徒たちの不当な扱われ方である。そして他方で、ムスリムたちに考えてもらいたいのは「あの世実在論」の中に、確実に「この世」でテロリズムを誘発する種が胚胎されているということであり、このメカニズムを自らの問題として受け止められるかということである。
 それは、ムスリムの生活と結びついた真の意味での「抵抗」−ヨーロッパ諸国に移住したムスリムが回心し、「モスクに通って祈り、酒から遠ざかり、妻以外の女から遠ざかる。それだけではない。子どもには優しく、高齢者にも優しく、妻をいたわり、家族を食べさせるために、せっせと働き続けるようになる」という生活の立て直しに始まり、姉に対する嘲弄に対して食わせたジダンの頭突きをも含む真っ当な「抵抗」と、権力者に利用された安易な自爆テロとがほとんど同一視されてムスリムが十把一絡げに扱われる現代にあっては決して避け得ない問題だと思う。

イスラムの怒り (集英社新書)

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