「文明の衝突」の論理を回避するために(前回の文章の補足)

 前回書いた文章(「他者」に寄り添う栄光と懸念−「イスラムの怒り」)の最後の方の論旨が今ひとつ不明確なので補足しておこう。
 特に石油の利権問題が要因となっている米国の世界戦略に対して中東諸国は時には懐柔されたり屈服させられたりしながらも、粘り強く抵抗してきたが、「9.11事件」以後(正確にはもう少し前になるだろうが)はそうした政治的、経済的な抵抗運動だったものが、サミュエル・P・ハンティントンの言う「文明の衝突」の文脈に置き換えられ、正当な抵抗も卑劣なテロも十把一絡げに扱われて「イスラム過激派」と一括りにされ、色眼鏡で見られてしまうことだった。
 その第一の原因はいうまでもなく欧米、日本など先進諸国の姿勢にある。広くは南北問題であると考える。
 にもかかわらず、それを「文明の衝突」という文脈で解釈してしまっては、解決の糸口を見いだすことができなくなってしまう。「文明の衝突からしょうがない」でおわってしまうからだ。
 そのためにはムスリムの側にもイスラム教を相対化する必要があると思う。(繰り返しになるが、相対化をさせる「生活の余裕」を与えなかったのは先進諸国の責任だとも考える。)
 この辺りのことをあらためて考えたくて、同じ著者の「イスラーム戦争の時代」(NHKブックス、題名からして私の関心にドンピシャリと感じた)を読んだが、前掲書「イスラムの怒り」以上に、イスラム教を信仰するムスリムの論理が前面に押し出され、ひたすらその立場を代弁するように説かれているため、ほとんど胸に落ちてこなかった。氏の書きぶりでは、ムスリムイスラム教を相対化することなどできない相談らしい。であるなら、その相対化が不可欠とする私の解法も茶番ということになる。