藤田和恵さん、この報告は安易すぎないか−「公共サービスが崩れてゆく  民営化の果てに」

【追記】私は下記で、藤田氏が「しわ寄せは官僚にではなく末端に」向かっているのを批判していることに対し、「このような思考パターンこそ、弱者をタテにとる官僚の思うつぼではないか」と論難したが、今は、仮に官僚の思うつぼだとしても、「民事法務協会」の一般職員の待遇が下がることには反対する。どんな正論があったとしても、末端職員が切り捨てられることを認めるわけにはいかない。
(本文ここから)
 前の記事でウォルフレンと規制緩和について考えているとき、あらためて同書を読んでみたのだが、モヤモヤしたものが残り、読後感が良くない。
 総じて言えることは「説明不足」ということだ。
 たとえば、冒頭の非常勤公務員にしても非常勤の養護教員にしても、それほど扱いに不満なのなら辞めて転職することはできないのか。「辞めるなんて人ごとだと思って軽々しく言うな」と言われるかもしれないが、こういう状況で苦しい思いを続けることなく、さっさと見切りをつける人は実際に存在するし、それも労働者としての立派な抵抗だと思う。
 本書の問題は、当人の労働と生活をめぐって肝心の部分の記述がなされていないため、上記のような疑問を解消することができないことだ。これらの人がどうしてその職場にとどまらなければならないかは、たいへん重要な情報だろう。特に「過酷な」労働で自殺に追い込まれたという「ゆうメイト」の男性などは、さっさと辞めていれば死なずにすんだはずなのだ。
 そのうえで「企画 全労連」と記されているのを見ると、一人ひとりの人生がある種のイデオロギーに合わせて都合よく切り取られ、単純化された「情報」に加工され利用されているようにさえ見えてくる。そういう深い掘り下げを欠く報告は、労働者のためのように見えて、実は労働者軽視になりかねないことを指摘したいと思う。
 次に、財団法人「民事法務協会」の業務が市場化テストにより入札にかけられ、同協会が何とか業務を落札したが、低い落札価格とならざるを得なかったため、法務省天下りとは関係のない末端の職員の給与が下がり、困窮に陥った報告(「小泉さんのせいで私もワーキングプア」)について。
 同協会職員の仕事は専門性と熟練が不可欠で、民営化にはなじまないと藤田氏は書いている。おそらくそういう側面はあるのだろう。そうした専門性にはそれに見合う待遇をあるべきだと思う。
 では、藤田氏自身も書いている、ここへ天下りしてきた元役人の皆さん−すなわち業務の専門性もなくてここにいてもらう必要のない皆さんーは市場化テストにさらされたあと、どうなったのだろうか。業務に支障が出ない最低の人数にまで削減できたのだろうか。
 市場化テストによる業務委託の目的はそのような天下りの人々に去ってもらい、国の業務委託費を削減することが最大の目的ではなかったか。ここの労組はそういう目的をきちんと認識したうえで闘ったのだろうか?
 本書には生活への不安を訴える組合員の声はあるが、天下りがどうなったかという肝心なことには一切触れていない。何か意図があってのことだとは思いたくないが、決してフェアな報告とは言えないことを指摘しておきたい。
 藤田氏は「しわ寄せは官僚にではなく末端に」と書く。これはどう読んでも、構造改革をしても末端の労働者が苦しむだけで官僚は安泰なのだから「構造改革などやめてしまえ」と言わんとしていると受け取らざるを得ない。だが、このような思考パターンこそ、弱者をタテにとる官僚の思うつぼではないか。
 政府組織は不断に構造改革をしなければならないと私は考えている。直接に市場の圧力にさらされない組織は、放っておいたら無駄と非効率が生じるのは必然だからだ。だが同時に、構造改革の効果がきちんと天下り役人の排除となって現れるよう制度設計をしなければならないし、末端へしわ寄せが行くことを回避するための方策も打たなければならないと考えている。
 私はこの問題でずっと試行錯誤している。「労働者にしわ寄せがいくからやめろ」という藤田氏と全労連は安易すぎると言わざるを得ない。

公共サービスが崩れてゆく―民営化の果てに (かもがわブックレット)

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