起源は違えど、結局はー市場化の波が足下を浸す

 先月、「規制緩和の是非再論−ウォルフレンが16年前に出した「宿題」はどうなったか?」で、
「ウォルフレンが正しければ、いま私たちが直面している問題のパースペクティブは、戦前あるいはさらに遡って、江戸時代辺りに植え付けられたお上に従順な日本人の心性の問題にまで行き着くだろう。逆にそうでなければ、視野をそこまで広げることなく、70年代以降の地方への補助金の垂れ流しに代表される悪平等的な諸政策を構造改革で打破すれば、かつてのような経済成長も夢ではない、ということになる」
と書いた。
 この時は、「日本ー権力構造の謎」を再読しようと思っていたのだが、アレックス・カー「犬と鬼 知られざる日本の肖像」(2002年、講談社)を読んで気が殺がれ、やめた。

「行政による操作に賛同する人たちは、一般国民が暗闇に立っていながら、全知全能の官僚が上手に国を導いていると信じている。日本の場合その結果が今あらわれ、全知全能どころか官僚は管轄下の活動を把握できなくなってしまった。むしろ混乱、怠慢、時代遅ればかりが目につき、原子力発電所、食料、医学、年金基金、あらゆる分野の管理に信じられないミスを犯している」「だが、しっかりした情報を無視して、効率を追求する国家がどうなるか、今になって見えるようになってきた」(「犬と鬼」127ページ)

 ウォルフレンから10数年、世界に冠たる「官僚主導型日本資本主義」が迎えたのが、上記のような体たらくであったことは、大方の方々が同意するのではないだろうか。かの「リビジョニズム」(日本異質論)の定義は、日本の敗北により大急ぎで議論を戦わせるほどのものではなくなった。
 だが、もう一つの疑問は依然として残っている。それは、現下の日本の救いがたい停滞の原因は遠く江戸時代辺りにまで遡らなければならないのか、あるいは、70年代以降の弱者保護の名を借りた規制強化の行き過ぎによるものなのか(日本銀行の愚鈍さもここに含まれると規定しておこう)、という問題である。
 この問題に関連して最近読んだのは「西武事件『堤家」支配と日本社会」(吉野源太郎著、2002年、日本経済新聞社)。「土地本位制」によって膨張を続けた西武が、バブル崩壊によって「土地本位」経営が逆にすべてマイナスに作用し、凋落の坂を転げ落ちていく様が描かれているが、ここには封建遺制の問題もあれば、土地への様々な規制が西武を利したとの解釈も成り立とう。
 要は、その問題の根源が古い封建遺制にあるのか、戦後の諸規制ににあるのかは重要な問題だが、それがどちらであれ、市場化の波に洗われることによって苦闘するしか選択肢はないー解決への道筋は変わらないということではないか。
 さらにいえば、市場化にさらされるほかないのだとしたら、ブレア「第三の道」を見習い、オチこぼれ追い詰められる人々のためにできることをわれわれはすべてやらなければならない。(スラヴォイ・ジジェクのように「革命」に賭けるほどの確信は持てないけれど)。
 おそらく市場化は必然である。現・民主党政権は市場化を促進しつつも、そこから振り落とされる人々を一人でも多く救わねばならない、というマッチポンプの矛盾で股裂きにされる存在としてわれわれの前に在る。

日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

犬と鬼-知られざる日本の肖像-

犬と鬼-知られざる日本の肖像-

西武事件 「堤家」支配と日本社会

西武事件 「堤家」支配と日本社会