踏み絵の逆説

 屈しているように見えて屈しているのではない、事実はその逆さまだということが世の中にはあるのだろう。その栄光は当人にしか分からないから誰からも賞賛されることはないが、たぶん当人はそれで充足しているはずだ。
 遠藤周作「沈黙」文庫268ページー

 司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

 そうやって司祭は踏み絵を踏み、外形的には間違いなく時の権力に屈した。だが、彼が屈辱と敗北感にまみれたかというと、実はそうではなかった。294ページー

 その時彼は踏み絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この激しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。

 私は宗教を信じないので、この小説にはもともと鼻白むものを感じるのだが、本書を読み、「屈する」あるいは「裏切る」という問題について表面的に判定してはならないと感じている。答えはその本人にしか分からない心の深奥にあるのかもしれないのだから。
 この司祭は踏み絵を踏むことで、逆説的に深い境地に達したということになる。

沈黙 (新潮文庫)

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