ネトウヨたちの羽音を聞きながら−はてなブックマークにはまってしまった私

 
追記:「日刊イオ」(http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/d1e9da2e095781f6f0df37600073edfc)の批判はその通りだと思うので、文中の呼称「北朝鮮」を「朝鮮民主主義人民共和国」に変えた。『北朝鮮」が蔑称であることを以前は意識していたのだが、留意しなくなってしまっていた。今後、略称も「朝鮮」でいくことにする。(2010/12/1記)

(本文ここから)
 尖閣問題で「はてな」の人気エントリーをチェックしていると、あまりに排外的、差別的なコメントが多いため、ついつい反論のコメントを送るのがクセになってしまった。
 最近では「日刊イオ」という在日コリアン関係のブログが、「韓国が当の海域で大規模演習をしていたという事実を無視して、朝鮮民主主義人民共和国が無差別に砲撃したように報じる日本のマスコミはおかしい。朝鮮学校では、再び、集団下校させるなど子どもたちの身辺に注意を払わなければならなくなってしまっている」との趣旨の文章をアップした(「砲撃事件」と呼ぶのはやめよう - 日刊イオ)のに対し、ネトウヨたちがブックマークページに集結。
 「(筆者補足:砲撃事件と)呼ぶのはやめようっていうんなら,じゃあ何て言えばいいんだよ,せめて代案を示せよ」「砲撃事件じゃなく虐殺事件」とか、あまりにひどいので、抗議の気持ちをこめて、

「かつて支配、収奪して弱体化させ、南北分断の大きな原因を作ったのがこの国だというのに「じゃあ何て言えばいいんだよ,せめて代案を示せよ」だの「砲撃事件ではなく虐殺事件か」だのよく言える。ああ恥ずかしい。

とコメントを書き入れた。(すると、3人の方が☆マークをくれたので、その人たちにもお礼の☆マークを送った。こういう交流は悪くないと思う。)
 尖閣問題か何かでブックマーク欄が右翼コメントだらけになっているのを初めて見た時の嫌悪感は忘れないが、その一つひとつはほぼ例外なく下らない内容であることにもすぐに気づいた。
 まず、日本がアジアを侵略した歴史をきちんと認識できていない。次に、マスコミの報じることを鵜呑みにして疑わない。(しかも「鵜呑みにする人」というのは簡潔明瞭な報道を好む傾向があるようで、「右」からナデ切りにする産経、読売を好んで読んで判断してしまい、ますます右寄りの意見を持ってしまうようだ。)
 さらに、論理的な思考ができない。というか、そういう思考をする気がないのかもしれない。
 とすると、「ネトウヨ」の人々は何を思ってコメントを投稿してきているのだろうか。私はある人に送ったコメントに自分なりの解釈を書いた。
 その人は「はてなハイク」で、「あなたの言動はレイシストじゃないかと批判したら、「他人をレイシストと決めつけるお前が差別してる!」との返されたことを挙げて、この言い方は「要するに自分自身が何者であるかを問われないための詭弁」ではないのかと嘆いていた。私はこの人に次のコメントを送った。

 私もこのようなごまかしを言う人は自覚的なレイシストだと思います。彼らは事実を学んだうえでレイシストになったのではなく、差別したい思いが何より先にあり、その材料を探しているに過ぎません。

 つまりこういうことだ。近現代史を謙虚な気持ちで学んだり、中国や韓国の人たちに興味を持ち、近づいて話したり、といった努力をした結果としてレイシストになることなどないはずだと私は考えている。
 まず、「自分の怒りを誰かにぶつけたい」「反撃してこない誰かを侮蔑したい」「誰かをおとしめて自分の誇りを確認したい」−このような思いが先にあり、それが近隣の国、政府、人々に向かうのだろう。そこには一片の論理性も実証性もあるはずがない。差別するための言い分を捜しているだけなのだから、彼ら彼女らは。
 だから私はあれらのコメントを読むとき、怒りとともに、常に書いた人たちへの哀れさを感じる(これはバカにしているのではない)。本来の怒りの向け先はそんなに遠くにあるはずはなく、誰にとってもたいがい、もっと身近な何かであるはずだからだ。
 私はいずれうんざりして、はてなブックマーク欄にコメントを送ることをやめるだろう。けれども、またたまらなくなって再開し、非生産的な日々を繰り返すのかもしれない。
 とはいえ、こうした嫌悪感を伴うネトウヨたちとのやりとりの一方で、尊敬に値するブログやコメントとの出会いも続いている。これら名前も顔も住む場所も知らない人たちとの連帯のネットワーク−私が連帯していると勝手に思いこむことで成立する妄想的ネットワーク−を作っていきたいと思っている。