何が労働者派遣法の改良をはばむのか

 「WEDGE 」09年2月号で東京大学水町勇一郎准教授は「(国の労働政策にお墨付きを与える労働政策審議会は)正社員を代表とする連合や大規模産別の役員が中心だ。非正社員を容易に雇用調整の対象とすることができる法制度も、こうした一部の代表者の話し合いによって形作られてきたのである」と言い、大竹文雄は「非正規雇用を雇用の調整弁と位置づけ、その増加をデフレ下の労務削減費ツールとすることで、正社の解雇員規制と賃金を守っていくという戦略に、経団連と連合の利害が一致したのだ」と書く。そういえばその連合が支持する民主党は、自党の責任に何も言及していない。
 
 この大竹の論考「正社員の雇用保障を弱め、社会の二極化を防げ」には次のような興味深い指摘もある。「しかし、今になって『非正規切りはけしからん』と企業を責め立てても責められる企業も困るだろう。非正規社員を雇用の調整弁とすることを社会から認められている以上、この行動は企業にとって完全に合理的であるからだ。同じく、非正規切りについて特段の対策を求めず、春闘で賃上げを求める組合の行動も、正社員の意見を代表する立場としては正当化されてしかるべきである。非正規社員を増やした段階で不況になるとこうなることは予測されており、だからこそ企業も労働組合も非正規比率を上げてきたのだ」。
 
 興味深い点は2つある。ひとつは「非正規社員を雇用の調整弁とすることを社会からみとめられている以上、この行動は企業にとって完全に合理的であるからだ」の部分。なるほどそのとおりだろう。しかし、ここに経済学—というより専門的な学問—の限界が現れていると思う。法的に認められていたら、かりにその結果たくさんの人が死んでも(もちろん補償する必要のない人々であることが前提だが)、企業として合理的ならば責められる謂われはないということになる。これは規制緩和論議でもしばしば遭遇する学識経験者の言葉でもある。しかし間接的にであっても人が迷惑をこうむることが分かっていたのだとしたら、それはやめるべきである。
 たとえば野口旭の何冊かの著作を読むと、いかに彼らリフレ派といわれる学者がメディアから不当な扱いを受けてきたかということとともに、まともな経済原理が通らないマスコミ論壇を見るにつけ、経済原則としての初歩的な経済学の勉強が不可欠であることがよくわかるし、彼が「エコノミストミシュラン」の鼎談の席で紹介した先輩経済学者の言葉「経済学者は政策の実現可能性に配慮して経済学の論理をねじまげてはいけない」には重い意味があることは認めるが、逆に経済学の論理を主張しそれがストレートに採用されてしまったら、悲惨な結果を招くことがありうるということも知るべきではないか。経済学の論理を最後のところでせき止める論理が衰弱したために、以前なら潰えていた経済学の論理が何の障害もなく政策として通用してしまっているのが日本社会なのである。経済学だけではだめだ。せめて「政治経済学」によって対応しなけばならない。
 もう一つは「同じく、非正規切りについて特段の対策を求めず、春闘で賃上げを求める組合の行動も、正社員の意見を代表する立場としては正当化されてしかるべきである」のくだりだ。いうまでもなく、いかにも「労働団体(まあ連合のことだが)はずっとすべての労働者の味方でした」との都合のよい言い分を皮肉な味を含めてひっくりかえしてくれる良い文章だ。
 9日の「asahi.com」によると、電機連合の中村正武委員長は春闘前に労使が議論する「労使フォーラム」の講演で「製造業派遣を禁止すべきだという論議があるが、性急な結論は出すべきではない」として、派遣禁止に反対する姿勢を示し、「製造業の派遣社員でも多様な働き方を求めている人が大勢いる」と述べている。しかし本来は正社員として多様な働き方ができる環境を作り出すのが労働組合の役目ではなかったか。
 「多様な働き方を求めている人」という言い方はいろいろな人がするけれど、私の目に映るのは安定した仕事を求める人々ばかりだ。「多様な働き方を求めている人」はどこにいるのだろう。ぜひ連れてきて紹介してほしい。本当にそんな働き方を求めているのか聞いてみたいから。