2012年05月22日のツイート

恣意的なレッテルとしての―「マイノリティ憑依」

 フォロワーの方から「マイノリティ憑依」という言葉を教えてもらった。「憑依」というと「狐憑き」や「コックリさん」を連想するが、「弱者や被害者の気持ちを代弁して神のような無敵の視点から相手を批判、攻撃する」という意味らしい。
「用法は?」というと、この言葉の生みの親である佐々木俊尚氏自身がこのようにツイートしている。
“@sasakitoshinao: マイノリティ憑依。「原発問題は社会に反撃を行うチャンス。原発というこれほど分かりやすい悪はありません。反原発を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てました」/ある主婦の体験から 自らの差別意識に気づいたことが覚醒の契機に
https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/199637997765918721
 リンク先のインタビューを読むと、白井由佳という主婦で自営業の女性が自分の人生に自信を喪失しているさなかに、原発事故が起き、「役割を得た」と思ったと話している。
「『原発』問題は社会に反撃を行うチャンス。原発というこれほど分かりやすい『悪』はありません。『反原発』を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てましたし、自己愛が満たされました」。
放射能パニックはカルト宗教への依存と似たものがあったと感じています。・・・道を示してくれる崇拝者、つまり『恐怖情報ソース』がいるのでとても楽でした。居心地のいい場所で、現実の世界にはない絶対的安心感を抱けました」
 このインタビューを読んだ人はどんな感想を持っただろう。私は「社会に反撃を行うチャンス」とか「特別な使命を持った選民意識」「放射能パニックはカルト宗教への依存と似た・・・」という辺りを読んでいて、被曝に強い懸念を抱く人々を「放射脳」と呼ぶ人たちにとって「ど真ん中ストライク」過ぎるフレーズがてんこ盛りであることに「?」と思った。できすぎていてプロパガンダっぽい不自然さを感じるのだ。
 しかもインタビュアーは、これまで被曝を忌避する人々に批判的な石井孝明氏。さらに、この「Global Energy Policy Research」を運営しているのは、池田信夫が代表のアゴラ研究所だ。被曝問題に関して公平を保とうなどと考えていないと見るべきだろう。
 ところが佐々木氏は、これを「マイノリティ憑依」の典型例としてあげているのだ。
 「憑依」という表現も気になる。大辞林によると、1.よりすがること 2.霊などが乗り移ることーとあるが、一般的には2.の意味だろう。(注)
 弱者や被害者が置かれた立場の矛盾や不当性に共感したり怒りを感じて発言するのはままあることだ。中には、欺瞞や行き過ぎはあるだろう。だが、それらは個別に見るべきなのであって、十把一絡げで「狐憑き」同然に扱うのは無茶ではないか。
 そこで、「こんな定義(マイノリティ憑依)を広められたら、弱者や支援者の正当な抗議活動はdisられ、無効化されてしまうだろう」「これは藁人形論法ではないか」とツイートした。
 しかし何か引っかかる。佐々木氏はなぜ今こういう特異な言葉を造ったのか。「当事者の時代」(光文社新書)を買って読んでみた。
 「マイノリティ憑依」という造語は、小田実津村喬に起源があるそうだ。佐々木氏はこう書く。
 「小田氏の論理はこうだった。ベトナム戦争に兵士として駆り出されているアメリカの若者は、『国に命令されている』という意味では被害者だ。そしてベトナム戦争で人を殺しているという意味では加害者だ。・・・『被害者であることによって、加害者になってしまった』ということなのだ。・・・この『被害者だからこそ加害者になる』という関係。〈被害者=加害者〉というメカニズムに私たち一人ひとりは取り込まれてしまっている。そして小田実は、このメカニズムから自分をいかに切り離すかが、反戦運動の大きな課題だと考えたのだった」。
 率直に言って、小田実というダイナミックな運動論を展開しながら言葉を紡いだ反戦思想家が、〈被害者=加害者〉などという枠組みに囚われたとは考えにくく、佐々木氏の誤読ではないかと思われる。小田実の有名な言葉に「殺すな」があるが、この米軍兵士をめぐる加害性・被害性論もベトナム人をいかに殺させないようにするか、米軍兵士にいかに侵略を踏みとどまらせるかを実現させるために考案された論法であったはずだ。
 それはキング牧師なども角度を変えて主張し続けて来たことだ。米政府に徴兵され、「自由と民主主義」をベトナム人に伝えるために若い黒人兵士は命を賭けさせられるが、その黒人兵士らは当の自分たちの国で一度も「自由と民主主義」を与えられたことなどないと。何という皮肉かと。
 このキング牧師の論理は〈被害者=加害者〉などと内向していく論法ではなく、一見、被害者と加害者という対立的にしか見えない関係も、見方を変えれば実はともに被害者なのであって、本来は連帯しうることを気づかせてくれるだろう。小田実も同じ考え方だろう、なんせ、「殺すな」を基点に考え続けた人だから。
 ところが佐々木氏は、これを一人の人間の内で「被害者性」「加害者性」の認識をバランスさせる問題に矮小化する。両者は相殺の関係にあるらしく、相手の被害者性を無視したら「人を〈加害者〉として断罪し続ける」オーバードーズの罠にはまるというのだ。これが「マイノリティ憑依」の状態なのだという。
 まあ、ここまで恣意的に解釈して編み出された定義だから、用法としてはいかようにも当てはめが可能だろう。ちょっとでも正義漢ぶったり、義憤に駆られたりして発言したら「それって『マイノリティ憑依』だよね」と冷たく言われて終わるとしたらたまらない。本多勝一や斉藤茂男もやっつけられているが、佐々木氏は要するに「レッテル張り」をしているに過ぎないと思う。
 佐々木氏がいかに異様なまでの思いこみに囚われているかを示す文章があるので引用する。分かる人には分かると思う。
「これはつまりは『憑依』である。つまり乗り移り、乗っ取り、その場所に依拠すること。狐憑きのようなものだ。マイノリティに憑依し、マイノリティに乗り移るのだ。そして乗り移った祝祭の舞台で、彼らは神の舞いを演じるのだ」
  さらに佐々木氏は、次の章で「マイノリティ憑依」を「穢れ」や「異邦人」という用語を使いながら神道の中に位置づけようとしているが、「マイノリティ憑依」という言葉が根拠薄弱なだけに、論じれば論じるほど説得力を失っているように見える。
たしかに、弱者や被害者の立場に立ったつもりで酔っているだけだったり、フリをして実は利用しているケースは、ジャーナリズムでも学会、運動圏にもあるだろう。だがそれらは個別に批判すればよいことだ。
このような疑問視せざるを得ない定義を提示した佐々木氏には、脱原発をめぐって人々が好き放題言い出したことへの苛立ちのようなものがあるのだろうか。「中国化する日本」の著者・与那覇潤氏のツイートなどにも似た感情が染み出ているようにも感じられ、少し気になっている。

@jyonaha: 「有名人なのに親原発」認定した人を叩いて「無名の俺の方がアイツより上」なる満足感を得たい人の対象が @ikedanob さんが即時ブロックする分 @amneris84 さんに向かってるのか。当時炎上した香山リカ氏の記事は正しかった気がする http://t.co/iy6IaRFa

 
(注)実際に佐々木氏自身が「当事者の時代」において「狐憑き」という言葉を使っている。

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

ブータンブーム 仕掛け人はどこの誰?(妄想中)

 ブータンワンチュク国王夫妻が来日し、宮中晩餐会に出たり、福島や京都を訪問して20日に離日した。
 福島は相馬市の小学校などを訪ね、子どもや被災者を激励したという。http://www.asahi.com/national/update/1118/TKY201111180599.html
 17日には国会演説まで行っている。その内容は、東日本大震災の被災者にブータン国民が祈りを捧げてきたことに始まり、「日本の技術の卓越、偉大さ」、「アジアをリードしてきたし、これからもリードしてほしい」といった、一体なんでそんなに褒めてくれるの?という演説だ。11/17 ブータン王国国王ジグミ・ケサル陛下及び同王妃陛下(国賓)歓迎会 - YouTube
 演説の後半、「日本は国土開発の最大のパートナー」などとも話している。ちょうど王は結婚し、妻を帯同して外交を展開できる状況になり、被災して大変な状況にある日本に来ることがこれまでの経済援助への感謝を表すとともに、引き続き支援を要請するには好機と踏んだということなのかもしれない(これはあくまで想像)。あわよくば観光客誘致という野望もあったことだろう。
 そのユーチューブのコメント欄には
「日本国民にとって本当の友人国はどこなのか?今回の国王ご夫妻の­来日ではっきりとわかりました。いつかはブータン国に行ってみたいです」
「下向いて聞いてる(聞いてないのか?)白髪の国会議員つまみ出し­ておk(ママ)」
など、ブータン愛に満ちたコメントが多数。世はあっというまにブータンブームになったらしい。http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/11/22/kiji/K20111122002081880.html
 まあ、ブータンは昔から入国が制限されていたから、行ってみる価値はあるだろう。だが、どうにも違和感を感じるのは、何だって日本人は、こんなに国王とその妃が好きなのかということだ。(チャールズ皇太子とダイアナの結婚式の熱狂を考えると、どの国の庶民もそうなのかもしれないが。)
 「人柄が謙虚だ」といって感心し、日本賛美演説に感動し、相馬訪問に涙ぐむ。で、ブータンブーム爆発。エスカレーターを昇っていくような予定調和な展開に対し、「うまくできすぎている」とは考えないのだろうか。
 たとえば、なぜブータン国王は国賓なのか。アフリカや中南米の小国(けれどたいがいはブータンよりでかい)の元首はふつう国賓などにしてもらえないだろう。(単に、「国王」という身分だからなのか?)しかも、このような小国で、日本にとって死活的に重要な国のトップでもないのに、なぜ国会演説までやらせたのだろう。たしかに地震直後に義捐金を送ってくれたりした国ではあったとはいえ、いかにも特別待遇のように見える。
 この若い国王が何かを仕組んだということではないだろう。そうではなくて、日本側に、ブータン国王を政治的に活用したいという意図があったのではないか(最近なぜか、テレビの旅行番組でブータン行を相次いで見ており、もしかしたら、メディアも使った周到な仕掛けがあったのかと疑いもするわけだが・・・)。
 その一つは、あの国会演説だろう。20年来の不況に苦しんでいるところに壊滅的な大地震と放射委物質の大拡散という、没落への決定打(?)を2連発も食らって消沈しているところに、一国の王が「日本こそが世界のリーダーだ」とぶってくれるのだ。しかも謙虚に、耳に心地よく。歯が浮くような思いをするのはごく少数のヘソ曲がりで、多くの人が感銘を受け、一瞬だけでも自信を取り戻したのかもしれない。
 もう一つは被災地−正確には、放射性物質による汚染度の高い福島ーに国王が行き、地元の人々を激励することの政治的効果である。王が相手なら、ハチロさんの時のような失言を誘うような質問は決して出ない。当たり前だ、激励に来てくれたことにひたすら感謝し、何のアテがなくても明日から頑張らねばならない、と一人ひとりが念じることになる。それが「王」の効能というものだ。
 そして国王による福島行は、その「ありがたさ」によって、間違いなく、福島から何とか避難しようとしている人たちにさらに重圧を与えることになるだろう。「わざわざブータン国王夫妻が激励にきてくれたのに地元が頑張らないでどうする」と。これも「王の効能」である。
実は、おそらくちょうど同時期、福島・渡利の住人たちは「除染をしっかりやる」の一手張りの行政当局に対し、「除染はやってんだよ、だどど線量が下がらないんだよ!」「こどもだけでも!」と食らいついていたのである。YouTube(やれやれ、もう見れないようだ。)
 ブータン国王夫妻の福島行は今後、天皇や皇族が福島に対し、どのようなアクションを起こすつもりなのかという想像もかきたてる。本来ならもっと、天皇福島県民をエンパワーして回ってもおかしくないのではないかと思うからだ。もちろんそうなれば、県民はますます避難しづらい雰囲気になってしまうのだろうが…。
 おそらく被曝を恐れるがゆえではないだろう。そうではなく、福島だけ巡幸すれば、福島の放射能汚染のひどさを追認してしまうことになる恐れがある、とか、実際に4〜5年経って、子どもたちに甲状腺ガンが多発したら天皇の権威も傷つかざるを得ない、それゆえ、やすやすと行幸を組むわけにはいかない…とすれば、福島だけではなく、被災県すべてを回る行幸にならざるを得ないのではないか等々…。
考えすぎかもしれないが、ブータン国王の福島行は、今後、天皇や皇族が福島にどう対応するかを検討する「斥候」のような役割を果たすことにもなったのではないか。
 ところでブータンってそんなに佳い国なのか。wikiを見ると、「ネパール系住民への弾圧、拷問、難民化」の問題が掲載されている。ブータンブームな人は「現地に行って幸福を分けてもらいたい」と話すが、今時そんな夢みたいな国は存在しないのではないか。



追記:ツイッターで suzuky 氏「ガーディアンのブータン評、おもしろすぎ。ゲイ禁止、タバコは闇市場で購入可能、民族服強制に国民はぶーたれ、水力発電は本当は外国に売るためで別に環境保護じゃないなどなど。このすべてを「幸福指数」で正当化した新王様は超冴えてる(皮肉)だそう。Would Bhutan's happiness index work in Britain? | Vishal Arora | Opinion | The Guardian
というツイが流れてきたので、ブータン前国王提唱の「幸福指数」なるものをwikiで見てみた。
 これは「国民総生産」に対抗して「国民総幸福量」という概念を提起したもので、人口67万人から8千人を選び、2年ごとに「心理的幸福」「健康」「良い統治」「生活水準」等に関する72の指標について1人あたり5時間の聞き取り調査するそうだ。「国民総生産」によって示されるような金銭的・物質的豊かさを目指すのではなく、精神的な豊かさ、つまり幸福を目指すべきだとする考えから生まれたものだそうだ。
 しかし統治者がこんなことを提案していいものだろうか。「心の豊かさ」など説く前に、国民経済を良くするために内政・外交でがんばるのが統治者の義務だろう。何という欺瞞、おためごかしだろうか。
 この指数には気になるキーワードもある—「良い統治」。国民に対し、「国王の統治は良いですか悪いですか」と訊くのだろうか。我慢できなくなって「国王最低!」と応えたら、その人の「幸福」はどうなるんだろうね。
 しかもwikiによると、「地域別に聞き、国民の感情を示す地図を作るという。どの地域のどんな立場の人が怒っているか、慈愛に満ちているのか、一目でわかる」そうだ。要するにこれは体のよい思想調査ではないか。「怒っている人の地域と立場」が特定できれば抑圧も簡単にやれる。まあ、国王の体制にとっては「幸福」なことなのかもしれないけれど・・・

 
 

被曝忌避を差別問題にしたい人たち—2つの記事と1つのツイートから

 産経新聞10月1日付け「都のがれき受け入れ 『放射能入れるな』苦情多数」(http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111001/dst11100108470002-n1.htm)を読んだ。東京都が岩手県宮古市のがれきを受け入れ、処理しようとしたら都民から苦情が寄せられたという話だ。

 都環境局によると、受け入れが発表された9月28日夜以降、29日に162件(電話129件、メール33件)、30日に283件(電話222件、メール61件)の意見があった。大半が「被災地支援も分かるが、子供がいて不安」「放射能を入れてくれるな」などと受け入れに反対する内容という。
 来年3月までに岩手県宮古市のがれき計1万1千トンを処理する予定。鉄道で都内の民間破砕施設に輸送して処理後、東京湾に埋め立てる。このがれきを処理した焼却灰を岩手県が検査したところ、1キロ当たり133ベクレルの放射性セシウムが検出されたが、国が災害廃棄物の広域処理で定める基準値(1キロ当たり8千ベクレル)を大幅に下回っている。

 これは、愛知県日進町での福島産の花火の打ち上げをめぐっての報道や、京都の五山送り火での岩手県陸前高田市の薪の扱いをめぐるニュースと同じだ。つまり、何に焦点が当たっているかというと、被曝を懸念する住民の数々の苦情がクローズアップされており、科学的根拠の薄い被災地差別ではないかということが匂わされている。
 報道というのは何に焦点を当てて取り上げるか、どういう角度で取材して書くかでまったく違った内容になる。私も長年、業界紙の記者をしているので分かる。「住民の苦情」だけに取材を絞ったら、必ず、ことさらに「住民エゴ」が強調される記事ができあがる。
 さらにここに、被災地の人々の「つらい」とか「ひどい」というコメントを載せられれば完璧だろう。
 なるほど、本気でそのように感じてそうコメントする人もいるかもしれない。だが、記者が誘導して、欲しいコメントを取ることだって可能だ。あるいは記者が、「これってひどいと思いませんか」と質問し、相手が「そうだね」と同意したら、「現地の人は『ひどい」と口をふるわせて答えた」と書くこともあり得る(私はそんなことはしていないよ)。
 何を言いたいのかというと、こうした一連の報道にはある意図があるのではないかということだ。すなわち、被曝を避けようと行政に抗議する人々の行為を、福島や近県に対する差別だと印象づける一種の操作が行われているのではないか、ということである。
 考えすぎだろうか。だが、「差別」という言葉で被災地とそうではない地域との分断を作り出せれば、政府や東京電力にとっては有利である。という以上に、権力者がイニシアティブを取って事を進めたければ、何としても人々の分断を図ろうとするのは常識と言ったほうがよいかもしれない。
 しかも、政府は大したコストをかけることなく、それをすることができる。自治体の記者クラブで「住民からこんな苦情が来ていて大変」と発表すれば、正義感に燃える一本気な(単細胞な、と言いたいところだが)記者たちが怒りを込めて「住民エゴ」を糾弾してくれる。
 だが実は、このように「住民の苦情」ばかりを強調した報道が、物事全体を見ていない近視眼な仕事であることは、次の記事を見ると分かる。
 秋田魁新報10月1日付け「焼却灰、受け入れない選択肢も 大館市長『市民の理解なければ』」(http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20111001c
 これは、首都圏からの放射性セシウムを含む焼却灰の受け入れ再開問題に関する報道だ。

 同市はこれまで、焼却灰の受け入れ再開の意向を繰り返し示している。処分場のある花岡地区で9月17日に開いた住民説明会で、小畑市長は「しっかりしたデータを公表し、安全性を訴えていく」などと述べ、受け入れ再開への理解を求めていた。会見で小畑市長は「(受け入れ再開を)一方的に決めることはない」と述べた上で、「市民の理解が得られなければ再開はできない。受け入れないという選択肢は十分ある。

 この記事にしても、大館市民の「焼却灰を受け入れるな」という抗議の場面にのみスポットを当てていたら、先の産経記事同様に、「自分がかわいいだけで、被災地のことを考えていないのかお前ら」的な報道になっていたことだろう。だが、それは生起した事態の一面でしかない。よりトータルに見渡す視点に立てば、この秋田魁新報のように「そうした市民の声を受けとめて、行政としてどう広報し、説得を試み、判断をするのか」を報じる記事になるはずだ。今回の一連の騒動は実は、行政の姿勢こそが問いただされている問題だったのだと思う。 
 さて、こうやって被曝忌避を差別問題に仕立てるのはマスメディアだけではない。一般人も大して変わらない。ツイッターでも@chiekk 鎌田千詠子 (旧姓:北澤) というアカウントの札幌の女性が
「私はずっと福島の子供たちを心配し応援してきたけど、将来もし私のムスコが福島で育った女の子と結婚したいと言ったら大反対すると思う。福島から北海道に避難してきた子だったらいいけどね。でも5年後10年後に避難してもダメだね。」とツイートしていた。彼女は子をもつ親として、自分なりに被曝への懸念を語り続けてきたのだろう。だが、そんな中で自らの持つ偏見があからさまに漏出してしまっている。
 このツイートに対し、私は以下のように返信した。
@takammmmm takayamitsui 三井貴也
「被曝を避けて移住したりするのは当然の行為だが、子へのあなたの発言は差別。同じ人間として扱わんということでしょ。」
 人々を偏見に陥らせるワナが張りめぐらされている。一方的な思いこみを排し、想像力をめぐらせることが問われている。

「被曝忌避」を差別問題にしてはならない 単色の直球バカから、tamamusiさんへの返事

 トラックバックのあったtamamusi氏の「自衛とか差別とか、とても難しい問題について(力量不足) http://d.hatena.ne.jp/tamamusi/20110929/1317303604」に返信していたら長くなったので、こちらにも転記することにした

 こんばんは。今あなたのハンドルネームがtamamusi(玉虫)であることに気づきました。私はお分かりのように単色の直球バカです。
 おっしゃるように、あらゆるところに「差別」の根はあります。私はツイッターもやっているのですが、在日朝鮮人の知り合いとやりとりしてたら、突如、凄まじいヘイトスピーチを投げつけてくる輩が山のようにいます。そういう差別には抗議しますが、自分が無謬であるとは思いませんし、私自身、「他者を人間扱いしなかった」、思い出したくない醜い記憶もあります。仰られるとおり、「自分の心の奥底で相手の身に如何になれるか」だと思います。 
 私が今回の議論で言いたいのは、被曝を巡る事象は差別問題ではないし、差別問題にしてはならないということです。
 母親が子どもをつれて西へ逃げたり、できるだけ西日本や輸入の食材を求めようとしたりすることは「被曝を避けて身を守る」という生物として当然の行動であって、それは福島に対する差別とはまったく別のことだ、ということです。端的に言えば、これらの行動は「放射能に対する忌避」であって「福島に対する忌避」ではありません。日進町の花火の件も、神経質な反応であるのかもしれませんが、基本的にはやはり同じことだと考えています。
 さらに踏み込んで言えば、この問題を差別問題の構図に当てはめることを阻止しなければならない、ハンセン氏病差別や在日差別など、抜きがたい偏見で社会構造に組み込まれてしまっている諸々の差別のアナロジーとして、今回の問題をとらえるべきではないということです。
 これは偏見が沈殿し固着化した歴史上の差別問題ではありません。原子力発電所の事故、放射能漏れという人災が原因なのです。やるべきことはすべての人が可能な限り、原発から遠ざかり、汚染物を避けることです。(どうにもならない事情で、福島や近県にとどまらざるを得ない人々も、この点はやはり同様です。)
 基本図を描けば、「福島に近いこっち側」と「福島から離れたあっち側」と分ける線を引くのではなく、福島第一を基点に、西日本へ、北海道方面へ、海外へと「→」が放射状に外に向けて指し示している図だけが似つかわしいと思います。線引きなんかではなく、遠ざかることが一番ということです。
 経済的、政治的に困難なことなのかもしれませんが、理想的な解決とはすべての汚染地域から避難させ、新天地での職住などを東電・政府の責任で保証すること。それで日本政府が破綻するというのであれば、いかなる労苦を払っても全国民で避難者を支えることです。日本社会がビンボーになるのはやむを得ません。
 長くなってすみません。いずれにせよ、西に逃げた母親たちを差別呼ばわりする言論とは闘わなければなりませんし、「あっち側」「こっち側」に分けて差別問題にすり替え、結果として「こっち側」たる福島に住む人々の現状を固定化する理屈にも反論していかなければいけないと思っています。このようなすり替えは、tamamusi さんもご指摘ですが、東電・政府には願ったりかなったりなわけですから。

pr3氏へ—失礼な論法に失望しましたのでやめましょう、お疲れ様でした

 pr3氏から「そこに人がいるから。http://d.hatena.ne.jp/pr3/20110927/1317132769」とのトラックバックがあったが、率直に言って失望した。ここからはpr3氏宛てに書こう。
 
 pr3さん、返信をいただきましたが、失望しました。「議論がかみあっていない」「理解不能」といった言葉が頻出していたからです。議論を真摯に続ける気持ちがあれば、こういうことは言いません。分かりにくければ、「こうではないか」「ああではないか」と問いながら、何とか議論をつなごうとするものです。まったくそういう努力をしようとされないのですね。そうではなくて、「かみ合わない」「理解不能」とおっしゃるのでは誠実さを疑わざるを得ません。あなたが私の問いに何とかして答えたくない、答える気がないというのが真実であるにもかかわらず、いかにも私が分かりにくいことを言っていることが原因で答えられないような印象を振りまくわけですから。
 あなたは「わたしが参加する議論ではいつものことなので」と書かれていますが、当たり前です。このような煙に巻くような論法を使えば、通じていた議論も通じないかのように見えてしまうでしょう。
 このような姑息な手法は読む人が読めば分かるものです。「答えられない」「答えたくない」のなら、このようなごまかしをせず、率直にそうおっしゃるべきだったと思います。
 まあ、そんなわけで、この議論、続ける気をなくしました。お疲れ様でした。
 もしもあらためて一つひとつ、あなたが提示した論点つぶしをしてほしいということであれば再開します(ゆっくりになるかもしれませんが)ので、トラックバックして下さい。ただしその際は、こういう卑怯な目くらましは二度と使わないでください。

pr3氏「被曝と差別問題への返答」への疑問-被曝忌避がなぜ福島への差別になるのか?

 pr3氏から「被曝と差別問題への返答 http://d.hatena.ne.jp/pr3/20110925/1316962873」をもらった。トラックバックという仕組みがイマイチよく分からないが、たぶんここに書けば氏も気づいてくれるだろう。
 文章を拝読したが、私自身、前便の主張を変える必要は感じなかった。

「あっち側」と「こっち側」を区別する人々、言い換えれば「被爆した地方」と「被爆していない地方」の区別をし、安全地帯から傲慢な物言いをする人々には、北関東在住でどちらかといえば「あっち側」の住人として、憤りを感じています。

 pr3氏は「あっち側」と「こっち側」と二分し、一方からもう一方への差別を許さないと憤っている。このように明瞭に切り分けられ、一方が他方を差別している構図が明瞭なら同調もしよう。しかしその前提として、放射能汚染に境は存在しないのだから、そもそも「あっち」と「こっち」を区別すること自体ナンセンスだ。放射能の性質を考えたとき、実はこのような概念操作は最初から破綻しているのである。
 結局、前便の繰り返しになるが、この問題への対処法として、「あっち」だの「こっち」だのと考えるのは無意味であり、あらゆる人が汚染源から遠く逃れる—これ以外に問題への対処法がないことは明らかだと思う。
 さて、pr3氏の文章の流れに沿って応答すると、私は例示一般を封じようというつもりは全くない。例示自体が悪いわけではない。そうではなく、論ずべきは日進町の花火問題であるにもかかわらず、それを疎かにしたまま「花火職人はどうだ」、「そこで生活している人々のことをどう思うんだ」などと、ルール違反としか言いようのない例示の仕方をしたからこそ、フェアじゃないと指摘したのである。
 産経抄からの引用と言いつつ、この書きぶりからみて「あっち側」「こっち側」の思考にあなたがなじんでいることは疑い得ないと感じる。そもそも、このような区別をすることこそが、人々を分断させる働きだと言うことになぜ気づかないのだろう。本来、悪いのは原発を推進してきた政府と破滅的な状況を作った東電であるにもかかわらず、批判の標的が、本来なら連帯すべき「あちら側」の人々に向けられている状態は、「支配者は分断して統治する」という公式をモロに証明してしまっている。
 ここでいくつか質問させてもらいたいと思う。
 いま、福島のコメの汚染度調査をやっている。私は規制値を下回る米であっても、この数値にどの程度の信頼性があるか分からない、また他の核種の放射線物質の検査も十分とはいえない、との理由から、福島(およびその隣県)の米を食べることを拒否するつもりでいる。私は差別者なのだろうか?
 別の例を出せば、さいたま市で7歳の子をもつ私の友人は思い悩んだ末、子どもの被曝懸念を理由に大阪に移住した。借家になり、経済的な負担も大きく、私は心配でならない。この、放射能を忌避して大阪まで遁走した私の友人は、あなたの基準でいえば、ケガレを忌避してはるか彼方に遁走した点において、許し難い差別者と規定されざるを得ないと思うが、いかがだろうか。
 また、あなた自身は福島の規制値超えの魚介類、農産物を積極的に食べているのだろうか。あなたの論理に従うなら、差別者にならないためには忌避は許されず、積極的に食さねばならないと思うが。
 さらに私の前便の「非国民通信」の「レイシズムに取って代わったものhttp://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/061001b2e5c2aa1676e1ef64bed77cdb」、「東京電力はよくやっているのに http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/0810d124f5307095f22554fac542e8ec
をお読みになって、何を感じるだろうか。同ブログは、荒らしの意図など持ち合わせない私のコメントを封じ、投稿の自由を封殺したまま更新が続けられており、政治的な意図あるいは悪意を勘ぐらざるを得ない状況にある。被曝を回避しようとする人々に対し「非国民通信」は「ヘイトスピーチ」という言葉を投げつけ、一方では東電を擁護している。あなたは「政府・東電への責任追及は別問題」とするが、ここではすんなり地続きなのだ。
 (後段のケガレ問題については、稿を改めます。)