辛辣の裏にある「痛み」―余華「ほんとうの中国の話をしよう」

 アマゾンのサイトで「中国」と打ち込んで検索すると、「2014年、中国は崩壊する」とか「中国危機」、「捏造」、「策動」「中国に立ち向かう・・・」など、1ページ目から中国に対し、悪意や敵意をむき出しにした本が何冊も出てくる。「人気度」で検索し直してもその幾つかは上位に来るから、それなりに読まれているのだろう。そういう人たちはどういう読後感を持つのだろうか。「2014年、中国は崩壊する」という題名などは典型的だと思うが、荒唐無稽だったり、そうでなくても事実に基づかない煽りや罵倒が繰り広げられていると思われるこれらの書物を読んでも、たぶん何も身にはつかない。とすると、やはり憎しみや怒りを発散させたり、嗜虐性を満たしたりして、溜飲を下げたくて読んでいるのだろうか。
 中国へは、20年前(広州〜貴陽)と昨年(上海)と、2回行った。短い旅行だから深くは接していないが、外国でいつも感じるのは、自分と大して違わない感情や思いを持ちながら人々が日常生活を送っているということだ。海外旅行がいいのは、異文化、顔、身体、言語、食べ物―など異質なものへの憧れと畏れが、じかに接することによって、いかに自分と同じような人間であるかを実感することではないだろうか。
 だが、だからこそ政治的に利用されやすい部分だとも言える。いかに自分たちと違う異質な存在であるかを煽り立てれば、容易に相手を「怪物化」することができてしまう。ごく最近までは朝鮮(北朝鮮)、今は中国。
 朝鮮や中国を叩くことに喜びを見出した人たちは、叩くこと自体が目的なので手の施しようがない。そうではない人は、余華(ユイホア)の「ほんとうの中国の話をしよう」(河出書房新社)を読むとよいと思う。
 この本は、「人民」や「領袖」「創作」「魯迅」といった10のキーワードを選び、エッセイ風に現代中国社会をつづった本だ。といって、著者は中国社会と日本社会の同質性を論じているわけではない。むしろ逆だ。拝金でデタラメで騒々しく、法治ではなく人治で権威主義的な、テレビニュースなどで私たちがよく見る中国社会が描出される。その書きぶりは、辛辣で露悪的なくらいだ。
 たとえば中国のコピー文化。「山寨(シャンチャイ)」と呼ぶそうだが、毛沢東のモノマネを全国各地から募ってコンテストを開催し、堅苦しい国営のニュース番組のパロディがネットで流され、コケにされる。大晦日に放送される紅白歌合戦のような「春節聯歓晩会」をまねたニセ番組が十数種類、動画サイトで流される。著者が「草の根」と名付ける名もない庶民が作ったものだ。しかも春節が近付くと、それぞれ宣伝カーを走らせ、記者会見まで開いて番組を宣伝するのだという。
 その宣伝文句の一つは、毛沢東の筆跡で「人民の春節晩会は人民の手で、人民のために」。正規の春節晩会に食傷気味の若者たちは、そうした「草の根」たちが制作した山寨版を見て楽しむのだという。
 だが余華はここに、「山寨」の積極的な意味を見出す。「つまり『山寨』現象は草の根文化のエリート文化に対する挑戦、民間の政府に対する挑戦、弱者の強者に対する挑戦なのだ…社会矛盾が普遍化、先鋭化したために、世界観や価値観に混乱が生じて『山寨』現象を招いた。『山寨』現象は、蓄積された多種多様な社会的感情が爆発して広まった反権威、反主流、反独占の社会革命なのだ」(「山寨」)と。
 このように余華は、奇怪だったり醜悪に見えたりする出来事のウラにある真意、隠された意味を描き出そうとする。
 特筆すべきは、現代中国の急激な経済発展が、かつての激烈な文化大革命リバイバルだと指摘した箇所だろう。
「革命はもはや武装闘争ではなく、頻繁に行われる政治キャンペーンという形で示されるようになった。そして、大躍進時代と文化大革命の時代に、それぞれピークを迎える。その後、中国は改革開放の姿勢を世界にアピールし、革命は消えたかに見えた。しかし、30数年の間に起こった経済の奇跡の中で革命は消えることなく、形を変えて再登場している。言い換えるなら、わが国の経済の奇跡の中には、大躍進式の革命運動があり、文革式の革命的暴力もあったのだ」。(「革命」)
とし、都市開発のため、有無を言わせず住居から住民を暴力的に追い出す例がふんだんに示される。そして、それを裏打ちする毛沢東の言葉。
「革命は客を招いてごちそうすることでなければ…そんなに穏やかで謙虚なものではない。革命は暴動だ」。(「革命」)
 同時代を生きる中国の人々が、いかに政治と経済の激流にもみくちゃにされながら生きているかが分かる。少し想像力を働かせれば、単に「拝金」と嗤ってすませられる話ではないことにも気づかされる。
 「中国の激しい政治運動において、革命と反革命紙一重の違いしかない。世間の言い方では、焼餅(シャオピン)をひっくり返すようなものだ。あの時代、人々はかまどの土手に貼りつけられた焼餅に過ぎず、運命の手で気ままにひっくり返された。昨日の革命家が、今日は反革命分子になってしまう。今日の反革命分子が、明日は革命家になるのだった」。(「草の根」)
 余華の視線の射程は深い。その根拠として、彼は「痛み」の感覚をあげる。「痛み」こそが他者と共有し合える感覚なのだと。
 少年紅衛兵のまねごとをして暴れていた少年時代、貯めた食料配給券で買い物しよう(これ自体は違法である)と地方から出てきた農民をリンチし、得意げに当局に引き渡したエピソードが痛みとともに語られる。幾多の誤りを犯したのちに辿りついた心境なのだと思われる。
 おそらく同書の読者はごく少数に限定されるだろうが、「崩壊」とか「捏造」「危機」といった形容詞で語られてしまうほど、中国は―世界は単純でも乱暴でもない、ぐらいのことは、このさい言っておいてもいいだろう。
 最後に―
 余華「今日の中国はまったく変わってしまった。激烈な競争と巨大な圧力が、多くの中国人の生活を戦争状態に陥れている。このような社会環境では、弱肉強食、詐取強奪、ペテンが当然のように流行する。分に安んじる者はしばしば淘汰され、大胆果敢な者がしばしば成功を収めるのだ。価値観の変化と財産の再配分は社会分化を促し、社会分化は社会衝突をもたらす。今日の中国にはすでに、本当の意味での階級と階級闘争が生まれている」。(「領袖」)

ほんとうの中国の話をしよう

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